2009.12.31
大晦日の風景

玄関から出たところに蟷螂がいる。
こんな時期に生きているものではないだろう。
死んでゆくタイミングを逃したのか。もう何日も前から。
字義通り虫の息ではあるが、触ると少し動くのでまだ死んでいない。
一日一日、家を出たり帰ったりして玄関前を通るたびにその蟷螂を見ると、
わずかばかり位置が移動しているので、なんとか生きながらえているらしい。
朝起きると眩き太陽にきらきらと透かされた粉雪が舞っていた。強風だったので、舞っていたというより、激しく飛んでいたというべきか。新聞を取るついでに蟷螂を見に行ったら、もう息はなかった。確認したわけではないが、もう雰囲気が死骸のそれだった。落ち葉に埋もれて。生きているときは落ち葉の中にあっても、なにか毅然とした空気を漂わせつつそこに存在しているのだけど、今日見たそれは、もう完全に落ち葉と質的に同化していた。昨日よりかなり位置を移動していたようだ。
大晦日、そして新年を迎える日。
掃除もほぼ済むというか済んだことにする。(なにごとも7割目くらいは早く進むのだけど、それから先が時間がかかったりする)
迎えるというのには、むこうからやってくるということで、ただこちらは掃除や心を正してそれを待っている。
除夜の鐘を聞くように、それは遠くからやってくる。
この時期のテンションの高いテレビが苦手だ。やはり心静かに新年は迎えたい。
実家に帰って、年越しそばでも食べよう。
みなさまよいお年を。
来年もまたよいブログを綴っていけたらと思います。
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2009.12.31
テクニカラーで映える深紅の唇。アンジェリーナ・ジョリー
運動を適度にして、適度に疲れることで夜は深い眠りが訪れると思い、お昼は少しばかり走ったり動いたりするも、眠る前にクリント・イーストウッド監督の「チェンジリング」を観たら、あまりの内容の凄まじさに興奮して目が冴えまくってしまい眠れなくなってしまった。
ここまで観ていて皮膚がひりひりするほど痛切な映画もないだろう。ここまで撮ってしまってイーストウッドはもういつ死んでもおかしくはない。批評が置き去りにされる映画。つくった人も観た人もみんな血だらけになるような映画。
それにしてもベッドに横たわる人間を見降ろすショットはまるで宗教画のように荘厳だった。
2009.12.30
内省と遡行2

なぜなら人が覚えていない事柄も同じくらい重要だからである。ヴァージニア・ウルフ
部屋の掃除をする。2部屋あるのだけど、物(ほとんど本だけど)が多くてなかなか片付かない。
でもこういう単純作業は妙に没頭するところがあって、何時間でもできる。
やっと6割くらい終わった感じ。すっきりするとやはり気持ちがいいな。
でもこれは脳のつくりなのか、シンプルにすることができない。シンプルだとかえって落ち着かない。こぎれいでありつつ、雑多な感じが残る方が落ち着くのだった。
物を整理すると、部屋を「歩く」という感じが出てくる。
物がさまざまに置いてあると、それらをまたいだり避けたりする意識が働くため、部屋を「歩く」という感覚が生じない。
でもこれだけきれいになっても、数週間後にはまた元に戻ってたりする。最初に床に置くひとつの物から増殖していくのだろうか。そしてまた「歩く」ことができなくなる。
日常の日々は、存在よりも非存在の方をはるかに多く含んでいる。ヴァージニア・ウルフ
今年の手帳を開くと、どこそこに行ったということが日付に出来事として記されている。それはすぐに思い出せる大きな出来事だ。それはそれでいい。まあでも忘れ去られていく、ちいさな出来事ってどのようなものなのか、そういったことをなるべくこのブログに綴ってみたいと思っていた。大気の変化とか、ちいさな決意だとかモチベーションだとか、軽い失望や驚き、感動、等々。写真もそうだろう。それはなにかがシャッターを押させたのだ。当たり前だが、シャッターを押す時と押さない時というのがあるわけで、押す時というのはなにか世界の微細なふるえとか、いきづかいとかを感じた時なのだろう。
わたしの敬愛する画家の古谷利裕さんの近著『人はとつぜん小説家になる』のなかで、わたしはただ小説の良い読者でありたいだけだ、ということが書かれてあって、じぶんはふとこの世界の出来事、現象のよき体験者でありたいのだなあということを思った。そういったことをこのブログで淡々と綴っていると事後的に思い、それを今年一年実践して、また多くの方に読んでいただき、コメントや拍手などもいただいて励まされていくうちに、一方的な独白も読んでくれている方たちへの贈与でありたいと大げさながら漠然と思うようになりました。これもブログを今年本格的に書き始めて得た大きな実感です。
今年見た映画ではゴダールや黒沢清、ヴィクトル・エリセの諸作品を見直し、新たに衝撃を受けたことは大きな体験となった。自分の感受性の根幹に映画があることを確認したことは大きい。過去観た優れた映画はもう一度なんとかして観る必要があることを痛感した。評判の高いイーストウッドの「グラントリノ」は、80歳近いご老体でその演出の冴えっぷりには驚愕するしかなかったが、説話的に受け入れ難いところがいくつかあった。いまの時代、一方的に善悪を分けること、悪そのものを描く事の困難、そして死によって裁きが完了するという点など地雷を踏んだ感がした。シビレるほどかっこいいけど。硫黄島より後退している。ぼくはずっとギャングたちが気になって仕方がなかった。それでも私にとってイーストウッドは神ですが。
先に紹介した古谷さんの本の冒頭で「わたしのもとには何もありません」という言葉があって、なにかすごい清々しさを感じ、泣きそうになるくらい心が震えた。
つづく
掃除もつづく
2009.12.30
いかん、いかん
いきなり、昼夜逆転生活。いかんいかん。
しかし目が冴えて仕方ないなあ。
でも深夜の愉悦って確かにある。
特に音の情報が昼と比べて極端に減るものだから、
いろんなことに集中できてしまう。
眠らなきゃと思うと、余計に目が冴える。
深夜には必ずと言っていいほど、救急車の音が遠くから聞こえてくる。
それはほんとに遠いどこかの出来事として捉えてしまう。対岸の。
しかし目が冴えて仕方ないなあ。
でも深夜の愉悦って確かにある。
特に音の情報が昼と比べて極端に減るものだから、
いろんなことに集中できてしまう。
眠らなきゃと思うと、余計に目が冴える。
深夜には必ずと言っていいほど、救急車の音が遠くから聞こえてくる。
それはほんとに遠いどこかの出来事として捉えてしまう。対岸の。
2009.12.29
内省と遡行1

疲れがでたのか、昼くらいまで眠ってしまった。寝て起きて寝ての繰り返しで昼というのではなく、目覚めてふと気づいたらもう昼だった。朝の光と昼の光は当たり前だがその質感、強さがぜんぜん違う。いまの昼の短い季節では、お昼くらいですでに夕方的な光の因子というか、ちょっと夕方っぽい光の印象がすでに少しばかり混じっていて、寝室に差し込む薄い光も、朝だと思って起きたら夕方的な光になっていて、少し焦るというかいや、寂しいという感情さえ巻き起こってしまって、明日からは休みとはいえ規則正しく生活しようと思うも、やっぱり夜更かしするのかなとも思ってしまう。
まとまった休みというのはなかなかとれないので、あれもやりたい、これもやりたいと思ってしまう。
年末年始はやはりひとつの大きな節目の時で、また一番心静かに内省できる時だと思うので、考えていることや考えたいことなど、じっくり向き合いたいと思う。「決意」とか「誓い」といったことも、この時期が一番しやすい。
こういうことはきちんとしていかないといけないと思うようになった。
※どこかにふらっと出かけてしまうかもしれないが、ブログもなるべく年末年始でも更新できればと思う。
あの世があるかどうかはわからないけど(感覚的にはあるような気がするけど)あろうがなかろうが重要な事は、この世界のことはこの世界で決着をつけるというか、持ち越しなどはあり得ないというか、自分に対するオトシマエとか、世界への約束とか、そういったことは、きちんとこの世界でしないといけいないと最近強く思うのだった。たとえそれが何年かかるものであろうとも。それが不可能性の領域にはいるもだとしてもだ。
今年は故郷に戻って環境が激変したということもあり、いろんなことがあった。まだそのほとんどを咀嚼できていないし、おそらくそれは何年もかかることだろう。
今年の文化的な衝撃事件のひとつとしては、やりすぎコージーの「ネイチャージモン」のDVDはとにかく素晴らしかった。普通レンタル屋に行っても手に取らないジャンルのものなので、紹介してくれた人にほんと感謝。(そのへんの興奮ぶりは今年の6/12~6/14の記事をお読みいただければと思う)寺門氏本人がどうかということを超えて、「自然」というものを理解するにあたって、とても重要な部分に触れてしまっていることの衝撃がある。これは素朴に多くの人に見てほしいと思う。
つづく。
2009.12.28
ある坂の記憶。

幼稚園は家から少し遠いところに通っていて、父親からいつも車で送ってもらっていたことを思い出す。
その道中には長い長いそして急な勾配の坂があって、車がその時少し大きめのエンジンを鳴らすことや、ちょうどその坂が太陽の運行軌道と向き合う位置にあるのか、つねに眩しい感じがいまでも強く記憶に残っている。
子ども時分にはその眩しさというのは強烈で、親は前がちゃんと見えて運転しているのだろうかと子どもながらにとても心配していた。
きょう仕事で、たまたまその坂を車で通った。
大人になった今でも、その坂は長く長く、勾配は急だと思った。
子ども時分には相当な坂だと映ったことだろう。
そしてきょう運転しながら太陽の眩しさが直接目に強烈に入ってきた時に、なにかこうジーンとくるものがあった。
まあ、地軸がブレるわけはないのだから、数十年経っても太陽の軌道など変わるべくもないのは当たり前だけど、それでもその太陽の眩しさに対して素朴に熱いものを感じてしまった。
それは懐かしさとはまた違う、時間の厚みというか、変わっていったものと変わっていないものとの出会いというか、なにかいろんなものが圧縮されて、かつ同時にその坂で解凍されてしまったような衝撃。そう、これは衝撃だ。
この坂は誰のものでもありながら、わたしだけのものでもある。そしてそれはまた誰かのものでもある。そういうのを物語と呼ぶのだろうか。
はじめになにがあって、いまはなにがあって、なにがなくてとか、どのように思い出せたり、想像したりできるのだろうか。そしてどこにむかおうとしているのか。どこからきて。
手紙
***
きょうは仕事納めという方も多かったのでは。
じぶんもそうでした。まだやるべき仕事は残ってたけど、無理矢理強制終了。
おつかれさまでした。
2009.12.27
いろんな気づき
わりといろんな人と会う仕事をしていると、いろんな人に会うことでいろいろ刺激を受けたり考えさせられたりすることが多い、というか人について考える癖がある、そしていろんなことに気づいたり、発見があったりする。
まずこの前、思ったのは夫婦は似ているということで、正確に言えば似てくるということなのかもしれないが、それは考え方とかではなくて、ズバリもう顔相というか、顔の雰囲気が似ている。もともと兄妹なのではないのかというほど、似ている。これは男性のタンパク質を女性が受け入れ続けるからだという説があるが理由はわからない。似ていない夫婦ももちろんいる。年齢を経ているほど似てくる傾向があるのかもしれない。子どものいない夫婦は似ていないような気がする。すべて僕の印象だけど。
これは人ではないけど、倒産しそうな会社は掃除がいきとどいていないような気がする。特にトイレが汚かったりする。あと目立たない建物の裏側とかがゴミとかタバコで汚かったりする。自分の部屋はいつも散らかっているので、それを見ると自戒を込めてしまう。些細なことだけど、部屋に花とか活けてあるのってとても重要なことのように思える。もちろん毎日水をかえて。もっと奇麗にしなきゃと反省。
人間としての色気は年齢とはまったく関係ないとつくづく感じる。50代60代でも男女ともにセクシーさを感じる人はいる。逆に20代でもそれを感じない人がいる。この差はなんなのだろうか。それはなにか老いて介護施設にはいる人とずっと元気で生活している人との違いとも関係しているような気がする。
世界への緊張感とか絶え間ない好奇心、関心、違う場所へ泳いで行こうとする意思みたいなものが、ヴァイタルを活性化させるのだろう。うちに籠ったり、あるいは外をうちのように思ったりするとすぐに老いてしまうような気がする。
60代の白髪のある老人に香り立つ色気を見て、そんなようなことを考えた。
まずこの前、思ったのは夫婦は似ているということで、正確に言えば似てくるということなのかもしれないが、それは考え方とかではなくて、ズバリもう顔相というか、顔の雰囲気が似ている。もともと兄妹なのではないのかというほど、似ている。これは男性のタンパク質を女性が受け入れ続けるからだという説があるが理由はわからない。似ていない夫婦ももちろんいる。年齢を経ているほど似てくる傾向があるのかもしれない。子どものいない夫婦は似ていないような気がする。すべて僕の印象だけど。
これは人ではないけど、倒産しそうな会社は掃除がいきとどいていないような気がする。特にトイレが汚かったりする。あと目立たない建物の裏側とかがゴミとかタバコで汚かったりする。自分の部屋はいつも散らかっているので、それを見ると自戒を込めてしまう。些細なことだけど、部屋に花とか活けてあるのってとても重要なことのように思える。もちろん毎日水をかえて。もっと奇麗にしなきゃと反省。
人間としての色気は年齢とはまったく関係ないとつくづく感じる。50代60代でも男女ともにセクシーさを感じる人はいる。逆に20代でもそれを感じない人がいる。この差はなんなのだろうか。それはなにか老いて介護施設にはいる人とずっと元気で生活している人との違いとも関係しているような気がする。
世界への緊張感とか絶え間ない好奇心、関心、違う場所へ泳いで行こうとする意思みたいなものが、ヴァイタルを活性化させるのだろう。うちに籠ったり、あるいは外をうちのように思ったりするとすぐに老いてしまうような気がする。
60代の白髪のある老人に香り立つ色気を見て、そんなようなことを考えた。
2009.12.26
待つこと、デジタル、タイムラグ

待ち合わせをしていて、相手より先に着いてしまって、その時本を読みながら相手を待っている人って、なんか素敵だと思えてしまう。まあ、最近ではほとんど皆携帯をいじりながら待っていることだろうけど。
携帯がなかった頃は、相手が来るかどうかはほんと、その時間にならないとわからなかった。
結局来なかったことの悲しさ。モヤモヤしてしまって、まっすぐ帰ることができない。でも実際はお互いに待ち合わせ場所を間違えていたりとか、待ち合わせ時間そのものを間違えていたりとか、急用ができたとか、そんな非効率なすれ違いはもうこの地球上では駆逐されてしまうのだろうか。
学生の頃はよく本屋の新潮文庫のところでとか、作家名まで絞って待ち合わせをしたりしたこともある。友人は立ち読みでドストエフスキーを読んで待っていたのにはおどろいた。
フィルムの場合には現像するまで時間がある。デジカメのようにその場ですぐ確認できない。8ミリフィルムなんかだと1週間とかかかっていた。
デジタル世界の普及は待つことや時間差というものを消していっている。距離も消していく。
ウィキペディアで調べること。辞書を引くこと。メールを送ること。瓶に手紙を入れて海に流すこと。来ない人を想うこと。クリスマスの夜に靴下を準備すること。
***
今住んでいる地域ではテレビ局の数が少なくて「すべらない話」を見ることができない。。見たい。。
2009.12.25
幸せとか不幸せとか関係ない世界をみんなで作りましょう。
きょう、お気に入りのラーメン屋に行ったら臨時休業となっていた。店長の都合で勝手に休む店は意外に好きである。
質問にたいして○×形式で答える、ゆる~いコミュニティのサイト「コトノハ○×」というのを偶然見つける。
「目の前にいない人の悪口を平気で人前で言える」
影口は言わないことにしているし、言いたくもない。それで何かが変わる事もなく、気分が晴れるわけでもない。松井秀喜が中学生の頃、もう僕は人の影口は絶対言わないと自分に誓ったという話を聞いて感動した25の頃の自分も他人の影口は言わないことを誓ったのだった。それから影口を言う人が苦手になった。
「ネットで知り合った人とリアルで会うのはあり得ない」
会ったことはないが、積極的に会う理由もないが、あり得なくはないし頑に拒む理由もまたない。自身の直感に尋ねてみる。いろんなリスクもあろうけど。
ネットというものがリアルな世界にたいしてどういう位置づけをもっているのか。
リアルが主でネットが従であるとか、それらは別々のものであるとか、対立するものであるとか、リアルな世界のなかにネットの世界が含み込まれる、いやネットの世界にリアルな世界が含み込まれる、いろんな解釈が成立する。一様のものでもなく、その都度主と従が切り替わっていくのかもしれないが、ネットでもリアルな世界と同様に笑ったり、悲しんだり、希望を得たり、絶望したりするのなら、それらは等価なものとして私の生に組み込まれているのかもしれない。
「希望を失い、死を決意したことがある」
決意までに至ったことはない。死ぬことを決意した後の世界はどのように映るのだろうか。灰色か眩き光か。
以前に自殺をはかって未遂し生還した人の自伝を読んで、かなり衝撃を受けた記憶がある。自殺した後の陰鬱な世界は生きている世界がぬるま湯に感じられるほど、凍りついた冷たい痛い孤独な暗闇の世界だという。その描写がリアルすぎて恐ろしかった。死んだほうがましだという状況はたびたびあるだろう。それでも人によって生きるという選択肢と死ぬという選択肢にわかれるのはなにによってだろうか。なにがストッパーとなるのだろうか。またなにが死への背中を押すのだろうか。
ミッシェル・ゴンドリー
このCMが流れていた時はビデオにぜひ録りたいと思っていて録画の準備をいつもしていたのだけど、そうやって待ち構えているといっこうに流れず、忘れた頃に流れての繰り返しで、結局録画できなかった思い出がある。
質問にたいして○×形式で答える、ゆる~いコミュニティのサイト「コトノハ○×」というのを偶然見つける。
「目の前にいない人の悪口を平気で人前で言える」
影口は言わないことにしているし、言いたくもない。それで何かが変わる事もなく、気分が晴れるわけでもない。松井秀喜が中学生の頃、もう僕は人の影口は絶対言わないと自分に誓ったという話を聞いて感動した25の頃の自分も他人の影口は言わないことを誓ったのだった。それから影口を言う人が苦手になった。
「ネットで知り合った人とリアルで会うのはあり得ない」
会ったことはないが、積極的に会う理由もないが、あり得なくはないし頑に拒む理由もまたない。自身の直感に尋ねてみる。いろんなリスクもあろうけど。
ネットというものがリアルな世界にたいしてどういう位置づけをもっているのか。
リアルが主でネットが従であるとか、それらは別々のものであるとか、対立するものであるとか、リアルな世界のなかにネットの世界が含み込まれる、いやネットの世界にリアルな世界が含み込まれる、いろんな解釈が成立する。一様のものでもなく、その都度主と従が切り替わっていくのかもしれないが、ネットでもリアルな世界と同様に笑ったり、悲しんだり、希望を得たり、絶望したりするのなら、それらは等価なものとして私の生に組み込まれているのかもしれない。
「希望を失い、死を決意したことがある」
決意までに至ったことはない。死ぬことを決意した後の世界はどのように映るのだろうか。灰色か眩き光か。
以前に自殺をはかって未遂し生還した人の自伝を読んで、かなり衝撃を受けた記憶がある。自殺した後の陰鬱な世界は生きている世界がぬるま湯に感じられるほど、凍りついた冷たい痛い孤独な暗闇の世界だという。その描写がリアルすぎて恐ろしかった。死んだほうがましだという状況はたびたびあるだろう。それでも人によって生きるという選択肢と死ぬという選択肢にわかれるのはなにによってだろうか。なにがストッパーとなるのだろうか。またなにが死への背中を押すのだろうか。
ミッシェル・ゴンドリー
このCMが流れていた時はビデオにぜひ録りたいと思っていて録画の準備をいつもしていたのだけど、そうやって待ち構えているといっこうに流れず、忘れた頃に流れての繰り返しで、結局録画できなかった思い出がある。
2009.12.24
古いアパートで

ぬこ。
じぶんは寒いときには風邪をひくことはないのだけど、寒さが緩んだ時に風邪をひきそうになる。子どもの頃からそう。今日もちょっとやばい感じがしたので、気を引き締める。
学生の頃住んでいた三鷹のアパートはすんごくボロくて壁が薄くて、両隣の部屋の声とかよく聞こえた。あるクリスマスの日に、好意はあったけどまだ付き合うまでにはいたってない女友達をアパートに呼んで部屋でいろいろ話していたら、女の人の嬌声が思いっきり聞こえ始めて、めちゃくちゃ気まずくなった。しかも両隣から。しかもお昼から。しかも何時間も。静かになったかと思えば、また聞こえ始めるの繰り返し。随時休憩をはさみながら。アスリートのように。耐え難くなって、ふたりで外に出たら玄関先はもっとその声が響いて聞こえていて、玄関先のところはそれなりに人通りのある道が通っていたので、こっちが恥ずかしくなってしまった。そういうのを笑い飛ばせるような仲ではなかったなあ。
いま、あの アパートはあるのだろうか。取り壊されていたら悲しい。思い出のいっぱい詰まった個人的な体験で織り込まれたアパート。
グーグルアースで見たら、まだあった。屋根で確認。
というか住んでいた三鷹の町が鮮明にアップされていて、いろんなことが思い出され懐かしさで胸が熱くなった。卒倒しそうになるほどの懐かしさ。過去を現前化させるITの力。
みなさま、いつも読んでいただいてありがとうございます!
拍手もありがとうございます。
みなさまのクリスマスがよいものでありますように。
ぬこ2。
