2009.11.30
光についての覚え書き

聖書に書かれてある、はじめに光ありきとは、どういうことなのか。またどういう状態なのか。
光というものに魅せられていて、光の表情みたいなものが浮かび上がっている光景(光/景)に出くわすとシャッターを押してしまう。夏の強烈なコントラストの強い光線もいいけど、冬の薄ぼんやりとした窓辺に差すような光もまた味わい深く愛している。じぶんの撮影はそういった光景に出くわして発見するという運(もしくは義務感)に よって支えられている。
そういった光の軌跡(あるいは奇蹟)を追いかけて、また撮られたものをしげしげと眺めているうちに、徐々に興奮してきて、ああ自分はこの光からやってきてこの光のもとに還っていくのではないのかと、ふと大げさにでもリアルに感じることがある。それはすごく宗教的な認識に近いのだけど、教条とか信じるとかましてや お金が絡むような宗教には真理に達する可能性はないと思っていて、こうして写真を撮ったり、考えたり、文章にしたり、描写することで沸きあがってくる身体性をともなった認識として生きたいと思っている。それは組織をつくってやるものではない、孤絶した営みから生まれる本物の認識なのではないか。(ぼくは、瞑想や山に籠もったり して修行するのはある意味、楽だなと思う。やっぱり社会にもまれることの方が圧倒的に大きな修行で、またそこから到達する真理も鍛えられたもので本物なんじゃないのかと思う。きついけど。)
臨死体験の本とか読むと、暗いトンネルの先に眩い圧倒的な光が現われて、それに包まれ、かぎりなく清められた感覚をもって、またこの世に帰還したという話をよく聞く。臨死体験懐疑派(つまりあの世はない派)はその光は手術台の照明ではないのかと指摘する。たしかに手術台の照明は恐ろしく眩いだろう。でも手術台の照明 でもいいじゃないかと思う。100Vから得られる啓示もあるのだ。
光の現場に立ち会ったとき、そんなとき、横溢とか充溢といった言葉がうかぶ。光が溢れている。
とくに朝は。
***
このブログのAuthor名を1000plaからn.fukashiに変える。ブログの書きはじめは無機的な名前がいいと思ってたけど、書いてあることに身体性を意識しはじめて、人間にちかい名前にする。ひとつの変化。
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2009.11.29
影たち
仕事である小学校を訪れたら、教室の壁にみんなの今学年の目標が掲げられていて、ある男の子が目標を「六年生になったから、すべてに責任をもつ」と書いてあった。とても重い言葉。
銀杏の樹がたくさん立っている近所の公園は、銀杏の黄色い落ち葉で地面が埋め尽くされていて壮観な眺めなのだけど、それを今日おばちゃんが竹ぼうきではわいているのをずっと見ていた。すこし離れたところから見ていたら、銀杏の落ち葉をはわいているというより、もっと抽象的な黄色の固まりをかき集めているみたいで、その黄色の固まりとおばちゃんが遊んでいるようにも見えて、おばちゃんが大量の黄色い銀杏の葉と必死に格闘すればするほど、黄色い固まりが宙を舞い、ふたたび地面に落ち、この光景はどこかで見覚えがあるなあと考えていたら、芸術家が大きなキャンバスに描くアクションペインティングだった。
落ち葉というのはごみのように思われているが、あれは自己施肥系といって、落ち葉や枝そのものに高い栄養があって自分で自分に栄養を与える自己完結のシステムを落葉樹は採っているのだけど、コンクリートや下草があまり生えていなければ、風ですぐに吹き飛んでしまい、ましてや掃除して片付けてしまうとそのシステムを壊してしまう。落ち葉がふかふかしている森や林は真に豊かだと言えるが、そんな森は日本ではもう少なくなってしまっている。
ボクシングは決定的に相手と向き合うスポーツではあるけど、でも練習も含めてお互いに見ているのは別のもののような気がする。見ているのは自分自身と言ってしまえば陳腐だけど、幻影というか幻影ゆえに自分を支配する強いもの、それにむかって拳をふるう。そんなシンプルな、シンプルであるがゆえに厳しいぎりぎりの世界とコンタクトする。痛みとともに。そしておそらく試合が終了して勝負が決まりお互いハグした時にはじめて対戦相手と出会うことになる。練習でも試合でもシャドーなものなのだ、ボクシングは。
2009.11.28
Bae Doo-na

普段より1時間早く家に帰れるだけで、けっこういろんなことができるし、疲労の回復も早いことに気づく。
映画「空気人形」は男性が疑似性交として使う性具のダッチワイフが主人公である。(ピノキオ譚の系譜)映画で使われるダッチワイフの顔が演出上ペ・ドゥナに似せられて作られていて、この時点で物そのものがもつ残酷さや怖さといったものが消されてしまっていて、冒頭からがっかりしてしまった。事実、新しく買い替えられた(無名の!)ダッチワイフの方が圧倒的に素晴らしかった。着想はいいのに、とにかく残念な点が多い映画。もったいない。小津は映画は人間さえきちんと描けていればそれでいいんだと語っていたが、きちんととは、作者の都合ではなく生きられるものとして、その世界のなかで生きたものとしてきちんと表現しえたということで、この映画では誰もが皆作者の都合で描かれていて、「過食症」とか「都会の孤独な人間」とか、みな記号以上の存在では描かれていなくて、嘘くさい。だからいろんな演出の仕掛けが全然効いていなくて、だからいろんなものが噛み合っていない。それが狙いでもないようだし。
この映画を見ながら、ぼくはこの映画以外のことを考えていた。
それは映し出されていた東京の風景についてである。
ぼくは東京の風景でいくつか好きな場所があるけど、個人的に湾岸エリアというか、特に羽田空港を利用する際のモノレールから見える湾岸の風景が胸がぎゅうっ(キュン?)となるくらい好きで、上京帰郷する際に使っていたということもあって、ここからの風景はああ、東京だ、と深く実感させるものがある。この映画ではお台場のゆりかもめの風景が出ていたような。
この映画ではロングショット気味の人と風景というショットと風景のみのショットがたびたび挟まれている。まあ、都市や孤絶する都会人という記号以上のものにはなり得てないけど、風景のみの場合その東京性みたいなものは薄まって、アジアのどこかの一都市みたいに見えるのだけど、その風景に人が入るとパッとショットが「東京」になることに気づいて驚いた。あたりまえのことを書いているのだろうか。自然の風景は自然のみで屹立しているけど、都市は人がいることではじめて固有の都市として表象可能になるのだろうか、なんてことを考えていた。
収穫はやっぱりペ・ドゥナの才で、ほんとに空気のようにからっぽに見えた。彼女はまだまだこんなものではないだろう。
まだ観てないけど、マイケルジャクソンの映画「THIS IS IT」の評判がとてもいいみたい。ある女の人は最高だったセックスの記憶を思い出したくらい観ていて幸福感に包まれたと書いていた。。絶対観てぇ。
2009.11.27
讃歌
ぼくは世界を讃えたいだけなんだと、酔っぱらった頭でマイケル・ナイマンの色っぽすぎる音楽にさらに酔いながら、いいじゃないか、これで、よかったじゃないかと肯定のことばをつぶやいた。
Time Lapse
大学のまだカセットテープのウォークマンだった頃、市ヶ谷の桜並木を歩きながらずっと聴いていた曲。いま聞き直すと、とてつもない曲を聴いていたことに驚く。これは世界を讃える音楽だ。
2009.11.27
自己史から外れて
トラウマという言葉はすっかり流通して簡単に使われるようになった。
トラウマとは語義的には実際には経験したはずなのだが、それを言語化して、自己史の正史に登録することができないでいる経験のこと、という内田樹氏の精確な説明。
自己史の正史に登録できない経験。
たしかに正史というものがあり、またそこにどうしても登録できない、登録が許されない経験というものがあり、むしろわれわれはその正史から外されたものに呪縛され、翻弄され、堂々巡りをしている、そんなふうに人間は生きているし、まさに正史以外のものが「私」というものの根っこを形成しているのであり、負こそ が自己を強く規定している。
こうも言ってよければ、短所こそじぶんの本質、真にオリジナルななにかなのだ。短所を伸ばせ。しかしもしトラウマを正面から引き受け、自己史の正史に登録することができたら、それは成熟ということに繋がるのだろう。いや成熟どころか、ひとつの自己史の消滅なのかもしれない。トラウマという外部によって、たえ ず正史の存在が保証、保護されている。沖縄から米軍が撤退したときに沖縄は消滅する。少なくとも戦後の沖縄は消える。目に砂粒が入り続ければ、見えることを見ようとするだろう。
わたしはトラウマを必要としているのかもしれない。トラウマがわたし語りを強制する。
追う刑事がふと抱く犯罪者への愛。
でも本当は「わたし」が消滅した先の風景が見たくて、見たくて。
たぶん、そっちのほうが豊かだし、なにせ面白いにちがいない。
トラウマとは語義的には実際には経験したはずなのだが、それを言語化して、自己史の正史に登録することができないでいる経験のこと、という内田樹氏の精確な説明。
自己史の正史に登録できない経験。
たしかに正史というものがあり、またそこにどうしても登録できない、登録が許されない経験というものがあり、むしろわれわれはその正史から外されたものに呪縛され、翻弄され、堂々巡りをしている、そんなふうに人間は生きているし、まさに正史以外のものが「私」というものの根っこを形成しているのであり、負こそ が自己を強く規定している。
こうも言ってよければ、短所こそじぶんの本質、真にオリジナルななにかなのだ。短所を伸ばせ。しかしもしトラウマを正面から引き受け、自己史の正史に登録することができたら、それは成熟ということに繋がるのだろう。いや成熟どころか、ひとつの自己史の消滅なのかもしれない。トラウマという外部によって、たえ ず正史の存在が保証、保護されている。沖縄から米軍が撤退したときに沖縄は消滅する。少なくとも戦後の沖縄は消える。目に砂粒が入り続ければ、見えることを見ようとするだろう。
わたしはトラウマを必要としているのかもしれない。トラウマがわたし語りを強制する。
追う刑事がふと抱く犯罪者への愛。
でも本当は「わたし」が消滅した先の風景が見たくて、見たくて。
たぶん、そっちのほうが豊かだし、なにせ面白いにちがいない。
2009.11.26
『伝奇集』ボルヘス

男の瞑想は不意にとぎれたが、ある徴候は早くからそのことを教えていた。まず、(長い旱魃のあとで)小鳥のように軽やかな雲が遠い丘に現われた。ついで、南方の空が豹の歯茎めいた色を帯びた。それから、夜の鋼を銹びさせる煙が上がった。そして怯えた動物たちが走った。何世紀も前に起こったことが繰り返されたのである。火の神の聖域の廃墟は火によって破壊された。小鳥たちも姿を見せない夜明け、魔術師は、同心円を描く火が壁を囲むのを見た。一瞬、水中に逃れようと思ったが、しかしすぐに、その老いを飾り、苦労から解き放つために、死が訪れようとしていることを悟った。彼ははためく炎に向かって進んだ。炎はその肉を噛むどころか、それを愛撫した。熱も燃焼も生ずることなく彼をつつんだ。安らぎと屈辱と恐怖を感じながら彼は、おのれもまた幻にすぎないと、他者がおのれを夢みているのだと悟った。
2009.11.25
自分だけに見える夢
吉田さんが芥川龍之介を語っているあたりは「へぇ」って感じだけども、柄谷行人の固有名が出ると動揺してしまう。もっと人を畏れよ。相当過酷な物語を吉田さんは背負っている。松本人志はほんとうに吉田さんの語りを一種の虚妄というか妄想として受け止めている。だが他人から虚妄のように受け止められるものこそ、吉田さんにとっての唯一無二の手放すことのできない、独りの夢なのだ。じぶんも昔、女の子に映画とか文学の話を一生懸命していたら、まったく理解されなくて、宇宙人のように扱われたことを思い出した。
吉田さん
でもほんとうにズバ抜けているのは福田さんなのだった。
福田さん
最近おっさんがいとおしく思えるのは、じぶんがおっさんに近づいたからなのか。
吉田さん
でもほんとうにズバ抜けているのは福田さんなのだった。
福田さん
最近おっさんがいとおしく思えるのは、じぶんがおっさんに近づいたからなのか。
2009.11.25
きょうの光線日記

夜行バスの深夜。たえず震動に翻弄されながらも、カーテンの隙間からもれる光線に魅せられ、独り起きながらにして夢を見ている。思索を誘う光線が真っ暗な車内を瞬間、瞬間に突き刺し貫いていく。いろんなものがスクランブルされる。過去とか意思とか、疲労とか。でもそれが、とてつもなく心地よい。
光にたいしてわれわれは常に無防備で受け身で貫かれているほかない。
きょう、夕方に市役所に行ったら、広いフロア全面に琥珀色の夕陽が差し込んでいて、それに誰もがみな等しく晒されていて、この「晒されている」感というか、パッシブな感じがたまらなくいいなと思って、そのフロアを長い時間眺めていた。
ブログはなるべく変化に富んだものを書こうとしているけど、もし毎日同じ記事を書いていたら狂人と思われるだろうかとか考えてみた。
まあ同じ記事ではなくとも、同じ内容をめぐってのことを毎日書きたいなあと思っている。でもこれがむずかしい。
2009.11.24
作者とはなにか

他の人が書いたブログを読んでいると、単純にこの人はどういう人なのだろうかという疑問が湧いてくる。趣味とか好みや顔といったことは書かれてある内容や写真で分かるとしても、その人の声の質感とか空気感とか所作振る舞いとかから醸し出されるもの、身体性といったものは勝手にこちらの先入観であてるしかない。ネット以外の生活世界ではこの他人の身体性に圧倒的に翻弄されていて、逆になにを考えていたり感じていたりしているかは勝手に想像するしかない。ブログなんかだと、その人の精神性みたいなものはすごくよく分かって、これは生活世界でのたとえば仕事仲間たちとは分かち合うことのできない肝心な深いところがオープンになっている。この非対称性。
ブログで自分をどう呼べばいいのか迷うことがある。
その呼称がけっこう、作者のイメージを大きく色付けてしまう。
「おれ」「俺」「オレ」とすれば男くさかったり、ハードボイルドだったり、「僕」「ぼく」だったらナイーブで繊細な感じを与える。
「私」「わたし」は理知的、真面目で堅い感じを与える。「自分」や自分の名前を自分で呼ぶのが無難なところか。女の人があえて「僕」と呼んだりするのは結構、軽やかで好きだけど。
カメラのシャッターは自分で押したとゆうより、世界によって押させられている感じがあるけど、そういうときって、私とか作者は消滅している。
ブログは強烈に作者(管理者)の独壇場だけど、それでも作者が消滅する地平といったものはあるのだろうか。
2009.11.23
始めました!

おだやかな一日。祝日っぽい一日。祝日っぽい気候。
祝日は日曜日なんかの休みとはまた違った時間の流れ方をしているような気がする。
街へ出ても、日曜のテンションとはすこし違う感じ。うまく説明できないけど。
自分の表現生理に合ったフォーマット、形式というのがある。
このブログで写真を掲載しているけど、いまいち息苦しい感じがずっとあって、書かれていることと写真が<説明>ではなくて、響き合うような、おたがいの潜在性が解放されるようなあり方を心がけてきたけど、いまいち感がずっとあり、はてなのブログで写真がじぶんから一人歩きしてくれるようなフォーマットを見つけたので、先週くらいから写真中心でぼちぼち始めました。ぜひこちらも見ていただければと思います。
↓ ↓ ↓
雲から抵抗へ
写真はたしかに自分が撮ったものではあるのだけど、自分の所有物のような感覚は全然なくて、むしろ世界の側に返したいような感覚があって、自分にとってのいい写真とはより世界の側についたような感じのする写真で、それは自由とか解放とか肯定とかよろこびとかが写真からどうしようもなく立ち上がってくるもので、それはもう自分の手からは放れている。自分の言葉もそういうものでありたいと思っている。自分はそういう場になんども立ち会いたいのだ。
写真は小さなキャノンのデジカメをいつも持ち歩いて、仕事の合間なんかに撮ったりしている。あえて撮影のために出かけたりはしない。そういうスタイルがじぶんにとって、世界に肉薄できる方法なのだと思う。構えるとだめなんだ。