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busshitsu to kioku


自転車に乗っていたら、さらした腕や顔に雨が落ちてくるのを感じた。
あまり濡らしたくない時計をはめていたので、外してポケットにいれる。
本降りになる前に家に帰る。

久し振りの雨。
そういえば今年の夏は雨が多かったことを思い出す。
雨音を屋内で聴くことの、なんらかの愉悦。
窓の外を目を凝らして見ると、やっと糸のような雨が
落ちているのがわかる。
その糸のような雨が等間隔のピッチで、窓をつたって落ちてきた。
それを見ているうちに僕は催眠にでもかかったのだろうか。

雨の日に飛行機に乗った。
離陸して雲を抜けたら、
天上は雨のない世界であることに気づいた。
厚い鉛色の雲の上に、ギラギラした太陽がどんといた。
飛行機はいつまでも角度30度くらいで上昇を続け、
その太陽に向かっているようだった。
よく見たら、スチュワーデスがいない。
機内放送も映画の放映サービスもない。
そのことに周りの乗客は誰も不思議に思っていなかった。
パイロット室の方を見ると、キラリと光るものが見えた。
僕は思わず、読んでいた新聞を置いた。
サバイバルナイフをもった男が静かに立っていたのが見えた。
飛行機はいつまでも上を上を目指して飛んでいた。
ありえない高さから、ヒマラヤ山脈やユーラシア大陸が見えた。

ぼくはなぜか、とてつもない力が胸の奥から湧いてくるのを感じて、
席を立って、その男の方へ歩いていった。
ずっと歩いているようで、いつまでいつまでも、その男に近づくことはできなかった。


この前ひろった玉虫を、花壇に葬ることに決めた。

夕方には太陽が雲間からやさしく照って、
自転車についた雨のしずくを輝かす。
濡れた葉っぱを乾かす。
山では地表に落ちた雨が再び空気中に放散し、
霞となって、雲となって、頂上を隠した。



2009.09.11 薄暮に吹く風
higure


今日は窓のそばに立つと一日中、そよ風がゆるやかに頬を撫でてくれて気持ちよかった。
夏の湿り気を含んだ風とは違う風。風にも千変万化する表情がある。
夕方にはもうその風はひんやりとさえしていた。

風を描写することは難しい。
特にアニメにおいては一番表現することが難しいのが風だと言われている。
宮崎駿はその風を表現することを最も得意としている。
どの作品も風が有効に表現されている。
最も難しいことを最も得意とすることが才能と呼ぶのかな。



ひとは生涯にそう何度も傑作をつくることはできない。
絵画にしろ、映画にしろ、文学にしろ、漫画にしろ、写真にしろ、音楽にしろ、建築にしろ、最良の作り手であっても何度も恒常的に最良のものをつくり続けることは難しい。
なぜそんなことが起こるのだろうか。


たとえば、宮崎駿を例にすると後のどの作品よりも初期の「未来少年コナン」の出来映えにはかなわない。もちろん最近の作品の方が、技術や思想性などはるかに高いレベルであることには間違いないが、それと作品としての凄さは関係がない。未来少年コナンはどの画面も一分の隙もない活劇としての運動神経に満ちていて、この作品を作ってくれてありがとうと素直に言いたくなる。

作家はつねに世界の豊穣さと対話することで、なにかを掴もうとする。
でもその対話の仕方が間違いであったり、作家の生理に反していたりすれば、はるかに劣化した対話の結果しか出ない。
世界の豊饒さに奇跡的にシンクロし同化することができたら、そのとき自身は世界を翻訳する媒体、器となるだろう。
音楽家が曲が降りてくると語るのは、このことではないだろうか。

なにかに触れてしまっている、という言い方をしたい。
そう、その表現はなにかに触れてしまっている。
最高傑作はなにかに触れてしまっている。確実に。
ゴッホの「カラスのいる麦畑」、北野武の「その男、凶暴につき」、荒木経惟の「センチメンタルな旅」、鳥取の投入堂、大江健三郎の「万延元年のフットボール」、ブルックナーの8番、マイルス・デイビスのKind Of Blue…挙げていけばきりがない。

ひとは作品より小さい。つねに。
なにかに触れてしまった作品には、人間すらいない。
そんな作品をひとは生涯にそう何度もつくることはできない。



花腐3


まだ花弁は落ちていない。



朝、出かけるときに半袖では寒いと感じるほどだった。
でもここでいきなり着込んでしまうと冬がシンドくなってしまうので、薄着のまま通す。
寒くなり始めの季節は風邪を引かない程度に薄着で過ごすと、冬の寒さに耐えられる体になる。

小学校の頃、クラスで年中ランニングシャツと半ズボンで過ごしてた男の子がいたなあ。
真冬に雪が降った時に、寒くないの?って聞いたら、「さみぃよぉ…」と答えたのが忘れられない。
親に強制されていたのだろうか。




仕事仲間で風体がまるでマフィアのようで、いかつい筋骨隆々の大男がいる。
でも見かけに寄らず優しくて利発で面白い人。
2人の会話はいつもほとんどが下ネタ(笑)で、真面目な話をしたことがないのだが、ある日ふと彼が小学校時代にイジメを受けていた話をし始めた。

はじめ彼がイジメていた話なのでは??と思ったが、よく聞いているとイジメられていた話だった。小学校時代は体が小さく、凄まじいイジメの対象だったという。休憩時間は地獄で、皆から危険なプロレス技をかけられたり、顔面を殴られ蹴られの毎日だったという。彼はサービス精神が旺盛な人間なのでネタで話しているのではないのかと半信半疑だったが、彼が目を潤ませているのを見て、あ、本当なんだと思った。学校を行く前は恐怖で吐いていたという。
もうノイローゼ状態で死んだ方がましだと思った彼は屋上へ上がり、欄干をまたがり飛び降りようとした。
あのとき、見えた地面はいまでもはっきり覚えているという。

飛び降りようとしたその瞬間に、学級委員の同級が後ろから来て、羽交い締めで強引に後ろに引っ張って、半狂乱状態で「死ぬくらいなら、やり返せばいいじゃないかっ!!」と泣きながら怒鳴ってきたという。この一言がおれを変えたと。あいつは恩人だと。

中学に入った彼は、木刀を手にその時イジメていた人間のクラスをひとつずつ回り、半殺しにしていったという。3クラス目で教師にとめられて、全員の復讐はできなかったと話す。

彼の顔相は普通の感じではなく、非常に眼力が強い、喩えるなら鬼瓦のような顔相なのだが、欄干をまたいで戻ってきた人間の顔はこうなるかもしれない、とも思った。

イジメを乗り越えるには原始的だが、昔の人が言うように「やり返す」のが一番有効的なのではないかと思った。
多分、イジメている人間にはそんな人を傷つけている自覚などないだろう。
その自覚を促すための復讐は、アリかなと思った。
もちろん勉強やスポーツなどで成功して見返すという、ポジティブな方法も充分有効だけど。

でもイジメを受けたことの傷は一生消えないだろう。
僕は彼が体をムキムキに鍛えているのは、暴力に怯えまくった日々の防衛意識とまったく無縁とはとても思えないからだ。



2009.09.09 宝石のような
(虫嫌いの人、ごめんよお)




大和玉虫




山にいたら、玉虫を偶然見つけた。
さっきまで微かに動いていたけど、
今はもう固くなっています。

この金属的な光沢は、天敵の鳥から身を守るため。
それが人間の工芸美として使われている。

ほんとにうっとりとしてしまうグラデーションの輝き。
なんでこんな虫がこの地球上に存在してしまっているのか。
この美しさは、地球の鏡であるにちがいない。

ずっとこの玉虫を見ていたら、
まだ少し、足が動いているのに気づいた。
でも、死んでも、この美しさに陰りはないそうだ。

自分の生涯で、あと何回玉虫を見ることができるのだろうか。






***
サッカーの面白さは、その不確定性にある。
足で行うゲームは、手で行うそれより不確実性が高く、
それが野蛮で、底知れぬ面白さを作りだす。
ゴールを決めたときに、これほど選手が驚喜するスポーツもない。
それほど不確実性に支配されている。

稲本がゴールを決めた。
昔活躍してたけど最近はあまりパッとしなかった選手が、
劇的に復活し、ゴールを決めるのが痛快でたまらない。
小野とかほんとに復活してほしい選手だけど。



2009.09.08 血潮のような
bloody



朝、ゴミ出しで外に出ると、もう寒いというところまで気温が下がっていた。
庭の野菜づくりは終わりをむかえようとしているが、フルーツトマトだけは爛々と実って熟していく。
緑色ではなく茶色が支配しようとしている季節に、鮮血のようなトマトの実がなっていた。
赤という色の印象を更新させられる、激烈な赤。


今日は朝から強風。
こんな日の雲はいつもと違う形のものが見られるので空を見続ける。
別府湾の海の波頭が白く点々とうねり、いつもと違う光景に少しテンションがあがる。

しかし風の強い日はコンタクトレンズをつけているので、目に砂埃が入り半端なく痛い。
砂嵐吹き荒れる砂漠を進むラクダは、ただただ涙を流し続けることによって、砂の痛みを緩和しているという。そんなことを思い出して涙を流し続けるが、やはり痛い。




地を這う てふてふ


0才 
流産の予定だった。
 
2才 
熱湯のみそ汁をひっくり返し、全身に浴びる。皮膚再生の名医に診てもらい、ケロイド痕は残らなかった。

4才 
弟とともに階段から転げ落ちる。頭を割る。

幼稚園 
シャボン玉液(要は洗剤)を吹くところが、何を思ったかガブ飲みする。気分が悪くなって吐き散らす。昏倒。

小4 
大型トラックに引かれ、5、6mくらい吹っ飛ぶ。スローモーションのように飛ぶ。かすり傷だけで済む。

小4 
林間学校で夜、何故か鼻血がとまらなくなる。1晩中とまらなかった。出血をとめる方法を知っていたおばさんにとめてもらう。命の恩人。ティッシュがごみ袋3袋分くらいいっぱいになる。これで死ぬんだ、、と思って怖かった。

小4 
木登りをしていたら滑り落ちて、木の股に首が引っかかり、宙づりになった。
意識が遠のくなか、死ぬことの恐怖はまるでなかった。冷静だった。いつの間にか下に降りてた。

中3 
食卓の上に置いてあった洗剤液をアクエリアスだと完全に思いこんでガブ飲みする。気分が悪くなって吐き散らす。昏倒。

高1 
霧の中、自転車をぶっ飛ばしていたら鉄柱がいきなり眼前に現れ、正面激突。5、6mくらい吹っ飛ぶ。スローモーションのように飛ぶ。打撲だけで済む。自転車はグシャグシャに。

高2 
体育祭の雑伎団的人間タワーで5mくらい上から落下。頭から落ちて、気絶。
深夜、病院でなぜか看護婦さんにパンツを脱がされている時に目が覚める。目があって、かわいいねと言われる。エエッ?何?

浪人 
新聞奨学生で過労の中、受験勉強をしていたら、血尿とか鼻血とか、とにかく血がでまくる。ほとんどノイローゼ状態。

大学3 
留守時にアパートに強盗が侵入。数分のすれ違いで、帰宅。鉢合わせは免れた。

24才 
原因不明の頭痛で一晩中、悶絶。熱は40度近くに。このままでは死んでしまうと思って、ついに自分で救急車を呼ぶ。だれも付添人はいないので、自分が救急車を誘導する。救急隊に驚かれる。

25才 
沖縄でチンピラに夜道に引きずり込まれる。足が速いので、うまく逃げる。


…その他もろもろ。。



あの時、死んだのか。
何回、おれは死んだのか。
小4が危なかった。


いまこうしてブログを書けるのも、すごいことなんだ。




ranhansya


お風呂に入っていて、お湯をジャバジャバ使っている時は、その音で浴室はすべて満たされるけど、湯船にゆっくり浸かっている時はなんにも音がせず、静かで、外の鈴虫が壁を通して薄く聞こえてくることに気づいた。

こういうスルーしてしまう細部や背景。また小さきもの、ことに気づいていくことと、この生の奇蹟に気づいていくことは同じことなのではないのかと、最近は考える。



写真は、「こんな空ってあるんだ…」と半ば呆然としながら撮った写真。



喫茶店で座っていて涼みながら本を読んでいたら、隣に座っていた女の人にいきなりホテルまでの道を聞かれた。。新種のキャッチセールスか宗教か。

携帯を見せられ、このホテルなんですけど…県外から来たので分からなくて…と。
その携帯を受け取って、場所がわかったので丁寧に教える。午前中、知人の家で土にまみれながら作業を手伝っていたので、携帯を扱う爪が汚れていて恥ずかしかった。

道を教えた後も、その女の人は席を立たず、ケーキをボロボロこぼしながら食べ、タバコを矢継ぎ早に吸い、全く落ち着きがなかった。ジェントルマンなら、もっと分かりやすく教えるべきだったのか、本当に道を理解したのか、宗教とかじゃなくて普通の観光の人ではないのかと悩む。

しばらくして、「ありがとうございました。」とお礼を言われ、去っていった。

隣が気になりすぎて、その時読んでいた小説は同じ行をたどるばかりで1時間半の間、
「ところどころ光のもれる薄曇りの桃色の空からは、昼間の湿気の名残りを含んだゆるやかな風が吹きつけ、土手の斜面を埋め尽くすヒメシバやカラスムギ、川岸に生える背の高い緑のアシをみな平等に揺らしていた」という行を読み続けていた。


ゾルキー


話しは結構変わるが、ロシアカメラのゾルキー4を持っている。
しかもロシア革命50周年記念のものだから、1967年製造ということか。ライカのコピーだが、クオリティは相当高い。
新宿の中古カメラ店カメラのきむらで買った掘り出し物。安く購入した記憶がある。
最近は使ってないけど、かなりいい質感のものが撮れる。
もちろん電池はいらない。手動でフィルムを巻き上げる。
シャッター音が素晴らしい。物質の出す、本物の音にゾクゾクす。


ロシア革命50執念


このブログの写真は全部デジカメのものだけど、自分は本質の所でデジカメは信用していないのかもしれない。圧倒的に便利だが、どうしても「情報」としての写真になってしまう傾向あり。フィルムの安心感、表現力。その質感と世界の質感は限りなく似ている。




2009.09.04 月に、尽き
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今日は月が、もの凄くデカかった。しかも満月か。月の位置が低いと比較になる建物とかに近づくため、大きく見えるらしいが、本当に今日のはデカかった。満月は人を狂わせるという。犯罪も増えると聞く。確かに惑わせるなにか怪しい力があるような気がする。
自分は満月を見るたびに、昔の人も同じように見ていたことを想い、戦国の世に戦で敗残し、刀が折れ、矢が尽き、山中に逃げまどって、疲れ切り、木の根元に座り込み、ふと顔を上げると満月が煌々と夜空に照っているのを見て、悲しみと悔しさに涙がこぼるる様をなぜかリアルに思い浮かべてしまう。前世でもあるのだろうか。単なる司馬遼太郎の読みすぎか。



昔のJACCSカードのCMをYouTubeで発見する。6話連続でどなたか編集してくれている。ありがたい。

http://www.youtube.com/watch?v=ChqpgaZlSJA&feature=related

このCMのオンエアは7、8年くらい前になるのではないか。
オンエア時は、この頼りない場当たり的な村上淳に図々しく勝手に自分を重ねて見ていた。自分の置かれていた状況が似ていた。というか、かなり食い入るようにこのCMを見ていた。

演出がステレオタイプであるものの、村上淳の頼りなさ、不器用さ、伊藤歩の意思の強さ、芯の強さ、清々しさ、そして音楽が、たんに消費され忘却されないCMに仕上がっている。「自分の夢に、嘘はつけない」というキャッチフレーズも憎い。ご利用は計画的に、より怖い。昔のCMの方が質が高い。2人とも目がきらきらしている。

季節の移り変わりに呼び覚まされる記憶もあるが、当時流行っていた音楽やCMによっても同様のことが起こる。自分の重かった当時のことが思い出され、胸が苦しくなった。というか、泣けた。
村淳の迷いと成長にも、伊藤歩の前へ進む力にも、音楽にも泣ける。こんなエモーショナルなCMってあるのだろうか。
検索すると、このCMに思いを込めて見ていた人は結構いるみたいだ。

バックに流れる山下達郎の「蒼茫(そうぼう)」という曲はマイナーだが、歌詞もメロディも彼の最高傑作なのではないのかと密かに思っている。彼自身特別な曲であると述懐している。

凍りついた夜に、「凍りついた夜には ささやかな愛の歌を~♪」と鼻歌を歌いながら、冬の暗い寒い三鷹の夜道をとぼとぼと一人で歩いて帰っていたのを今でも思い出す。笑

この曲について「嬉しいときも、悲しいときも、幸せなときも、つらい苦しいときもずっと聞いてきた、一番大切な曲です。」とコメントしている人がいた。まさにそんな名曲。山下達郎の他の曲は申し訳ないがあまり聴かないけど、この曲は個人的な思い入れもあり、星5つ。




蒼茫

遠く翳る空から
たそがれが舞い降りる
ちっぽけな街に生まれ
人込みの中を生きる
数知れぬ 人々の
魂に届くように

凍りついた夜には
ささやかな愛の歌を
吹きすさんだ風に怯え
くじけそうな心へと
泣かないで この道は
未来へと 続いている

限りない命のすきまを
やさしさは流れて行くもの
生き続けることの意味
誰よりも待ち望んでいたい
寂しさは琥珀となり
ひそやかに輝き出す

憧れや名誉はいらない
華やかな夢も欲しくない
生き続ける事の意味
それだけを待ち望んでいたい
To find out the truth of life!

たそがれが降りて来る
歌声が聴こえて来る・・・

La La La La・・・




2009.09.03 静けさ
花腐2


静けさはお金で買えない、尊いもののひとつ。
休日の皆が活動していない昼前の、なんでもない静けさに心動かされたり、
蝉が同時に鳴き止んで、それまで背景にあった鳥のさえずりが前面に聞こえてきたり、
静かなるものに、判然とはしないが、なにか世界の強い確信のようなものを感じることがある。

ある幼なじみの両親の耳が不自由だった。その子の家に遊びに行くと、その家にテレビとかラジオとか音の出るものが少なく、また会話が手話によってなされるため、ことのほか静かな家庭で、そのあまりの静かさにかえって居心地が悪かったのを記憶している。でも両親同士の、あるいは親子同士の手話のコミュニケーションに、密なる愛情といったものを子供ながらに感じていた。暗闇の世界より、絶対的な無音の世界の方が想像しにくい。無音の絶対零度の世界で真のコミュニケーションの大切さを思う。

宇宙って、なにか音がするのか。



まだ最良だった頃の北野武監督の「あの夏、いちばん静かな海」が無性に見たくなった。

朝、パラパラと家の壁面を叩く雨音に目が覚め、静けさを破られ、静けさについてパラパラ思考した。