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芥川賞作家の川上未映子氏は、自分と同い齢。
同い齢の人がどのようなことを考え、書いているのかは少し気になるところ。

身体性ぶりぶりの言語感覚で書かれた前作とかはあまり読む気がしないのだけど、いじめの問題を真正面から捉えた『ヘヴン』は以前から読もうと思っていて、今日読了した。
その直球ぶりに驚く。変化球で書くことが得意な人が直球で書くことには相当な困難が予想される。でもこの困難こそ、作品に誠意と簡単に物事を断定してしまわない粘り強い思考を与えている。

(以下、ネタバレありの評論です。注意)



「いじめ」という使い古されたというか、社会通念にまみれた事象に真っ向から取り組む姿勢に作者の真摯な態度を見る。そこを言論ではなく、小説というもので新たな世界を見ていく。小説の力を信じること。
大正時代ではなく、平成現代の教養小説(成長小説)としてすっきり読んだ。倉田百三の現代版みたいな。
それは川上氏の戦略としてあっただろう。
しかし、どの登場人物も作者の頭の中の外を出ることがなく、はじめは納得がいかなかった。誰も皆似ていたし、他者のいない小説は読む価値がない。でも読み進めるうちに、これもそれでいいんだと納得するようになった。それは〈小説〉というメディアを通して作者が哲学・倫理を発展させたかった狙いが腑に落ちたから。特に「僕」と百瀬の哲学談義には、いろんな意味で度肝を抜かれた。その直裁的な形式に。

よく語られているように百瀬は決してニヒリズムではない。まっとうな世界の認識論について語っている。世界の残酷さについて。
仏教にある「空(くう)」という考え方。現象は無ではないけど空である。そこに色はついていない。
人間が勝手に空に色をつけ、それが世界だと騒いでいるだけだ。
「僕」にとっての斜視はいじめの対象では決してないし、それはたった1万5千円でケリがついてしまうような公園の砂場にある糞のようなものだ。そこに固執してしまうのが人間の色づけの行為。そこになんの意味もない。世界の重さと軽さに「僕」は揺れる。聖痕のごとき「しるし」に執着するコジマは、世界の重さに賭ける。だが「僕」は世界の空に気づき始め、(偶然をきっかけとして!)斜視の手術のことを知り、心が揺れる。そこを見抜き、もう「僕」は仲間ではないと泣くコジマの描写ほど胸が痛いものはない。

「もう、わたしの名前を、呼ばないで」

コジマは徹底的に手術に反対し、聖人のようにいじめを積極的に受苦していく。ラストのくじら公園でそれはひとつの極に達するだろう。
斜視手術の話をきっかけに、2人は別物の様態となる。「僕」にとってコジマがマスターベーションの際に想像する対象になることで、世界の様相がガラリと変わっていく。「僕」にとってコジマが象徴界(手紙)ではなく、客体化され身体的現象(勃起と射精)を通して現実界へと降りてきた存在に変わる。これが象徴的エピソードとなっている。だからくじら公園に二ノ宮も現れることになる。そして男の性衝動というものが必然的に含む暴力性によって、「僕」は加害者の立場に足を踏み入れることになっているのかもしれない。だから、もう「僕」とコジマは仲間ではないのだ。ここらへんの流れはすごく面白い。

「僕」もコジマも百瀬も世界が明瞭すぎるほど見えている。誰が正解というわけでもない。手術した「僕」を責める理由はどこにもない。空を空のまま、あるいは好きな色をつけるのもまた、我々が天から与えられている残酷な自由の一つなのだ。ラストに「僕」が到達した世界の風景描写はこちらの涙が禁じ得ないほどに美しい。素晴らしい。
だがそれもまた、ひとつの色づけの行為であり、正解かどうかの結論はコジマが世界に存在する限り両義的に宙吊りのままとなる。それがこの小説の存在意義でもあるだろう。「僕」の見たヘヴンもまた括弧付きのものと成らざるを得ない。しかし括弧付きであっても、「僕」にとっては否定できない確かな世界の手触りなのだった。

そしてまたこの3者を凌駕する形で存在する大人である「僕」の継母の存在がこの小説の抜け道のひとつではないか。血が吹き出ても、彼女は笑うのだった。目を閉じれば、人生の向こう側に行けるのは、離婚を予兆する彼女だけかもしれない。



いろいろと永遠に語れそうだが、そんなことよりもいくつか忘れ得ない言葉、描写を自分はいくつか引用して結びとしたい。

「わたしは可哀想であの人と結婚したのよ」
「いまの人の顔ってすごくいやらしいのよ。なんていうか、すごくいやらしいの。大事なことが全然わかってない顔してるの」
「わたしは君の目がとてもすき」
「僕は自分でも驚くほど静かな気持ちで、自分がそのときに思ったことを口にした。なにを言っているのかは自分でもわかっていたけれど、きこえてきた声はやはり自分のものじゃないような気がした」
「僕ははじめて学校でコジマの名前を呼んだ」
「わたしが、お母さんをぜったいに許せないのは…最後まで、可哀想だって思いつづけなかったことよ」
「僕の両目からはとめどもなく涙が流れ、涙ににじみながら目のまえにあらわれた世界はあらわれながら何度でも生まれつづけているようだった」


heaven, Mieko Kawakami


装丁デザインは(過剰なほど!)シンプルでした。


norikura heaven



お昼に本を読んでいると、昼にも鈴虫が鳴いていることに気づいた。
鈴虫って、一日中鳴いているんだ。
お昼の鈴虫の鳴き声はとてもやさしい。


部屋からカラスの動きをじっと見ていたら、あれだけ憎々しかった感情が溶けていった。
かれらに知性があることは、動きを見ていればすぐに分かる。
すべての動きをいちいち考え込みながらやっている。
雀や土鳩なんか、まるっきり何も考えずに筋肉の自動律的な刺激反射によって、
動いているというか動かされているけど、カラスは違う。
首をかしげたり、平気でする。相当かわいいやつ。



ファミレスネタの続き。
ファミレスでバイトしている人たちの女性陣はまだまともだったが、
男どもの方がとにかくひどかった。
男の陰湿さは救いようがない気がした。

店内にケーキとかのデザート系が冷蔵庫に保管されていて、それは賞味期限が過ぎると廃棄するようになっているのだが、それらは捨てずにその時いた人がもらうような暗黙のシステムになっていた。
ある日、自分のシフトの時にケーキが余っていて、やはり捨てるのがもったいないなと思ったので、持って帰って食べたら、翌日男どもが誰が食べたんだ!と騒いでいて、唖然としてしまった。シフトを見れば自分が持って帰ったのは明らかで、聞こえるように言っていたその陰湿さに情けなくなった。それと同時に食べ物の恨みは怖いという格言を思い出していた。

また店内の奥には控え室のようなところがあって、まあそこはバイトの人たちがたむろする場所でもあるのだけど、ある男がそこに自由帳のようなノートを置き、皆でそこにイニシャルで店内の人の悪口を書いていった。
その当時はネットも普及がまだの頃だったので、今思えばネットいじめの原型のようなものがそこにあった。
イニシャルと言ってもスタッフは20名くらいなので、誰について書いているのかすぐに分かる。
匿名をいいことに、書きたい放題書いていた男たちが救いようもなく醜かった。

彼らは、人の足を引っ張ったり、人を貶めたりすることの技術は異様なほど磨かれていて、そんな能力だけ伸ばしてどうするんじゃいと思った。そうしないと生き残れない寒い環境にずっといたんだと思った。自分がいじめられないために、他人をいじめるみたいな。
自分はそういうコミュニティの外にいたので、なにかを書かれても傷ついたり怒ることもなかったけど、今思えば、こういう悪意に関してはきちんと怒って抗議すべきだったなと思う。
ひとりひとり向き合うと悪い人ではないのだけど、集団になると悪意がむきだしになって、人を貶めていく感性がわからなかった。

そのノートを初めて開いた時、「こいつ、バイト選び間違えたよランキング」1位に自分のイニシャルが書かれていて笑えた。彼らは他人を分析・採点するのに長けていた。でも当人自身が分析されたり採点されたり責められたり、追い込まれたりすることには極端に弱かった。びっくりするほど。弱い犬ほどよく吠える喩えを思い出した。

彼らはいま、どのような社会人になっているのだろうか。
未成熟から成熟へ向かうある一時期のあり方ならいいが。


norikura peak*


乗鞍岳で熊が出没。9人が重軽傷との報道。

山だから熊が出るのは当たり前。
人間がいる方がおかしい。かれらの生活の場所なのだから。
襲われた方は不幸だが、それぐらいの覚悟がなければ山には入れない。

乗鞍岳は何度も登った長野県と岐阜県の県境にある名山。
バスが結構上まで連れて行ってくれるので、こんなに登りやすい3,000m級の山は他にない。
頂上は神様しかいないような、孤絶したこの世のものとは思えない場所。ヘヴン。
数百メートル先のひそひそ話さえ聞こえそうな静寂と反響。
また行きたくなる。


nori kura dake







今日も爽やかな秋晴れで風も強く、空気も澄んでいるせいか、遠くから高校かどこかの体育祭のアナウンスが聞こえてくる。オクラホマミキサーが街中に響いている…懐かしいと同時に気恥ずかしささえ。平和~。

好きな人の手前で曲が終わったり、好きな人でちょうど曲が終わってまたその人と組めたり、、そんなことに一喜一憂していた時代。あの独特な高揚感や緊張感が懐かしい。フォークダンスは日本全国、公立も私立もやっているのかな。まあ、共学じゃなきゃやらないだろうけど。



ファミレスでバイトしていた頃の話で思い出したこと。
バイトし始めて1ヶ月もすれば、中の人間関係が全部わかってくる。と同時に愕然とした。
自分のいた店舗だけの特色かもしれないが、高校生と大学生がほとんどなのだけど、彼らはどうやら彼氏彼女をつくるためにバイトをしているようなところがあって、2、3ヶ月おきくらいに相手を替えて、まるでローテーションのように店内の人とつきあっているのだった。自分は笑ってしまうくらいにそんな輪の中に入れず、ただ傍観していた。

かれらの生態は合理的と言えば合理的だけど、その信念のなさにうすら寒いものを感じていた。僕は傍観していて、なにか人を深く好きになってしまうことのリスクというか、傷ついたり、プライドを損なったりすることを彼らが極端に避けているような気がした。傷つく前に別れるのを繰り返し、別れた相手を悪く言い、一巡してまた同じ人と付き合っているような人もいた。
彼らはどんな顔でフォークダンスをするのだろうか?


日本はこれから大丈夫なのだろうかと本気で考えた。。
もう終わってるかもしれない。
ファミレスネタは、続く…。



2009.09.19 黎明
noboru taiyou



今日はいつもより早く起きて外に出たら、見紛うばかりの太陽が昇っていた。
この時間の風景は1分ごとに変わっていく。



僕は東京で新聞奨学生をしていた頃、朝刊は朝3時に起きて6時30分くらいには配達し終わるのだけど、この時間帯の時々刻々と変わる東京の景色がたまらなく好きだった。
僕はこの風景を見るために東京に来た、とさえ思ったほどだった。

イリュミネーション輝く夜の東京タワーより朝の照明の消えた東京タワーの方が好きだった。徐々に徐々に徐々に徐々に暗闇に青い光が差し、ビルや物体に輪郭が与えられていく中を走っていく。クラブの多くある青山周辺では酔い潰れた若者や始発を待つ若者がぶらぶらしていたり、生鮮食品を扱う店はもう準備を始めていたり、こそこそと隠れるようにピンクチラシを配る人がいたり、水商売の人が化粧の崩れた疲れた顔でとぼとぼ歩いていたり、東京のある一面を強烈に見ていた。
そして完全なる朝が来れば、サラリーマンや学生が通勤通学をする「1日の始まり」の風景が展開された。

今は3時とか5時とかは完全に眠っている時間だけど、眠っているからといって存在しないというわけではない。そこにはひそやかに、おごそかに、ささやくような微動する景色が確かに存在している。



2009.09.18 傾向と対策
takebayashi


朝の静けさが好きで、朝は基本的にテレビはつけない。
住むところを選ぶ時も、静かさとか閑静なというのは自分にとって相当重要な要素となる。
朝冷え込んでも、まだ虫が鳴いているのが部屋から聞こえる。
これらを騒音でかき消すのは惜しい。
今日も眩しい朝日だった。
通学途中の小学生の集団は東に向かって歩いているため、
太陽と真向かいでみな顔をしかめていた。


お昼をファミレスで食べようとしたけど、異様に混んでいたのでやめた。
空いたテーブルにお皿がたくさん残っていた。
つまり、まわっていなかった。
スタッフがてんぱっていて、顔が引きつっていた。

僕は学生時代、ファミレスでバイトをしていたので、
うまく店内がまわっていない時のスタッフの焦りが手に取るようにわかり、
ご飯の味が分からなくなってしまうから、混んでいる時は利用しないことにしている。

ファミレスやハンバーガー屋などの飲食店は、薄利多売で利益をあげるために
そのほとんどがアルバイトの力によって支えられている。(どこもそうか)
正社員は店長だけか、もう一人いれば多いほうだろう。
アルバイトでも1年くらいやっている人はもうほとんどプロ並みのさばきができるけど、
新人などは店内がまわらなくなったら、もうパニクってしまい、それがミスを生み、
さらにまわらなくなる悪循環に陥る。
スタッフの組み合わせが、まれに新人と新人だったりしたら、これを収拾できる力がなく、
来たお客さんを帰してしまうことになることも多い。

自分がいたファミレスは近くに事務所でもあったのか、怖い人がよく利用していて、少しでも料理提供が遅れたり、ミスをしたら、皿をナイフとフォークでガンガン叩かれ、寝ている店長を呼んで来いやら、クレームをつけられ、騒がれることが多々あった。

ある時、僕はもうまともに相手にしているのが馬鹿馬鹿しくなったので、一度キッチンの人と組んで、いつも食べるものが決まっていたので、怖い彼らが入店してきたら合図を出し、オーダーを受けてかなりの短時間で料理を出したら、「吉牛なみに早いなあ」と褒められ(?)顔を覚えられて、それからあまり騒がれなくなったような気がする。



2009.09.17 中毒性
wadachi



朝、気温差が激しかったのか、自転車のサドルが朝露に湿っていた。

朝日と夕日は明確に違うが、今朝玄関を出たら、
夕日のような光が広がっていた。
一概には言えないけど、夕日はアンバー系というか、琥珀色の印象が強い。
朝日はホワイトもしくは青みがかった白か。
でも今日の朝は光が琥珀色だったので、夕方を思い起こさせた。

風景は心象をそのまま反映する。
朝は憂鬱だったり、やるぞという気分だったり、
夕方は仕事からの開放感だったり、疲労感があったり、
それが風景にそのまま反映される。
朝の陰鬱な曇り空は、そのまま自身の陰鬱と強く響きあい、
心に穴を穿たれる。
風景に心が反映されるのか、心に風景が反映されるのか、
それは離れずの関係にある。



Jリーグのあるチームのスポンサーからパチンコ屋が撤退した。
パチンコ屋はチームのユニフォームの胸に広告を刻むことができないらしい。
青少年の健全な?育成のためだろうか。

自分の実家は数年前まで三方をぐるりパチンコ屋に囲まれていた。
でも堅実な親は子供がパチンコなどのギャンブルの道に走るのをひどく嫌い、
パチンコをやる人間の低俗さについて滔々と刷り込みをかけた。
そのせいか、自分はパチンコ屋に生理的な嫌悪感があり、
パチンコが好きな人間と価値観を共有するのが難しい人間になった。

パチンコ屋とラブホテルだけが繁盛している日本各地の田舎の風景に、
おそろしく失望してしまう。

パチンコをやる人間に話を聞くと、あれはもう完全に中毒の世界で
パチンコ屋のにおいとか、音とかを聞くだけで、体が快感に包まれ、
店の中に入ってしまうらしい。恐ろしい。

でも自分は活字中毒で本がないと死んでしまうよな、と思うと
あんまり大差ないのかもしれない。
本屋のちくま文庫とか哲学のコーナーの前に立つと、鳥肌が立ってしまう。

小学校の頃、憧れていた先生がささっとパチンコ屋に入っていくのを
見たときには、見てはいけない大人の事情を覗いたような気持ちになった。



2009.09.16 名店とは
cloud 090916



昨晩からのどが痛く、体もだるい。
昨日、インフルの記事を書いてインフルにかかっていたら馬鹿みたいだな。
この一日の気温の上下は体調を崩させるのに充分かもしれない。
夏仕様の身体から秋冬仕様の身体への移行は簡単ではない。

朝起きて、外に出ると朝の冷気に圧倒されるくらいになった。
通常は草の匂いがうわっとするのだが、今日は冷気の方が勝っていた。
あらためて、朝の空気の清浄さに感動する。
汚れてないって、こういうことなのかな。
思いきり深呼吸する。



今日のお昼は市場にある定食屋さんで食べる。
皆がいいよ、とお薦めのところ。
築地市場でもそうだけど、市場の中の食堂に外れは少ない。
入店して瞬間的にこの店は名店だと直観する。

僕の考える庶民的名店の条件。
「狭い」
「客が途切れない」
「家族で経営している」
「雑然としている」
「こ汚い印象だけど、清掃はちゃんとしている」
「昭和の空気」
「お皿に統一性がない」
「注文を勝手に決める」
「メニューが少ない」
「量が多い」
「おかわりOK」
「安い」
「美味しい」
「皿を片づけるタイミングが早い」
「おかわりを勧めてくる」
「店長がよく喋りかけてくる」

この店はほとんどこの条件を満たしていた。
もちろん美味しいというのが重要な核であるに違いないが、
それ以外の要素も自分は楽しみたい。

カウンター幅が極端に狭く、きりもりしているおばちゃんの
顔と自分の顔との距離が異様に近いのが笑えた。
唾とか確実にはいっているのでなかろうか。



***
新政権発足。
鳩山氏の宇宙人ぶりに期待する。
宇宙人なみの非常識さでメチャクチャやってほしい。
クレイジーでなければ、新しい世界は創れない。


2009.09.15 焦点の外へ
pinboke



ピンぼけが好きで、フォーカスをずらして撮ったりする。
ピンぼけの質感は、自分にとっての記憶の中にある風景の質感に限りなく近い。
安堵感さえある。
これだったら、きつい感じのあるデジカメも、まあなんとか悪くないものに。



身体は人間に残された数少ない自然の一つ。

20代の持病のない女性が新型インフルエンザで亡くなったという。

この秋から冬にかけて恐ろしいことになりやしないか。
日本の病院はすぐに薬を処方しすぎる。
麻薬とかに限らず、医療でも薬天国だ。
風邪とかでも抗生物質なんて簡単に処方するけど、あんな劇薬は簡単に飲んではいけない。
ヨーロッパなんかめったに処方されないらしい。
抗生物質は生きるか死ぬかの瀬戸際で初めて使われるくらいの薬だ。
服用してあっという間に効く薬ほど恐ろしいものはない。
毒を毒で制しているのが薬の本質。

そもそも病気になるにはそれなりに身体にとって必然性があり、
病気というのを薬で簡単に退治したり撃退してはいけない。

たとえば、ガン細胞というのは熱に弱く、
今の人は熱が出るとすぐ薬を飲んで冷まそうとするが、
せっかくのガン細胞を殺すチャンスをみすみす逃している。

身体は信じがたいほどの精妙さで、そのシステムを保っている。
身体が崩壊しそうな時、あえてバランスを崩す(病気になる)ことで、
以前以上の身体のバランスを得ようとする。
薬の濫用はこうした身体の精妙さへの絶縁に他ならない。

日本は抗生物質の濫用で、薬に抵抗を持つ菌がたくさんいる。
新型インフルが突然変異して、殺人ウィルスになりかねない。日本だけ。

若い人ほど危ないらしいので、みなさんご注意を。



2009.09.14 あ、1000だ
nichirin



もうblogを数ヶ月も書けば、以前なにを書いたか忘れてしまって、
あえて振り返ることもしないので、同じ事を書いてしまうこともあるだろうけど、
それもblogのよさかもしれないと、自己肯定しつつ、その日に思いついたことを、
なるべくヒラメキを大事にして書いていく。
文章の輪郭みたいなものを、あらかじめメモして、それを整理してアップすることも
あるけど、jazzの即興みたいにパソコンに対峙して、パッと書いていくのが
一番自然で気持ちがいい。




カウントが1,000を越えた。
というか、1,000を越えるのを待ちかまえて
記事を書いた。笑

書き始めからカウントしているわけではないし、
ページヴューでカウントしているので、
まあいい加減なカウントだけど、
ひとつの目安として設置している。
1000という節目。



いままで訪れてきてくれた方々に感謝です。
ありがとうございます。
固定客の方が多いようで、それもなんだか嬉しいです。

とかなんとかいって、数字を追う人生を送ると、
人は癌に冒されるという説を信じているので(笑)、
あるときカウンターを消去するかも。
私生活はあまり順調とは言えないけど、
blogを書くことによって、少しずつ勇気をもらい、
光を追いかけ、走り出している。


以前は会社が銀座にあったので、社長に連れられ、
ある銀座の小さいBarで酒を飲んだことが多々あった。
銀座は地価が半端なく高いところだから、
個人でBarを開くには、そんな大きな店舗は無理だろうけど、
そのBarは人がすれ違うのが厳しいほど、ほんとに狭いお店で、
その狭さ暗さがたまらなくよかった。
子供の頃、押入に入って隠れた時の安心感のような。
胎児の頃の、子宮のなかにいる頃の原体験なのだろうか。

このblogも、お客さんがポツリポツリと来て呑んで、
しんみりと酔って、またフラリと帰っていくような
小さなBarのようでありたいなと思う。



「たとえあなたが行かなくとも 店の明かりは灯ってる」
というある酒場評論家の言葉を思い出した。












kono blog kaiteru hito


自分で撮るのって、けっこうむずかしい。



mada ki dearu



今日は風が気持ちよくて、土手を散歩していた。
母校の高校のサッカー部の練習を見る。

練習というのは受け身ではなんにもならない。
おそらくコーチや監督から指示された内容の練習をルーティーンのように
こなしているのが、強くなるための練習だと思っているのだろうけど、
いちいち考えて練習しないと、かえって弱くなるのではないかと思った。

中田英寿は自分が納得したことしか練習しなかったという。

サッカーでは同じ状況が訪れるのは試合で一度もない。
PKくらいだろう。
つねに応用する力が求められており、応用する力がなければ勝つことはない。
もちろん応用する基礎力が前提だけど。
それは、創造性といったこととも関わる。
そこを監督やコーチは刺激してやらないといけない。
完全にルーティン化した緊張感のない練習を見てたら、口を出したくなってしまった。




部屋を片づけていたら、映画「トラフィック」のビデオが出てきたので見る。
冒頭、15分くらいを見てみようと思っていたのだが、思わず引き込まれて最後まで見てしまった。

この地球上には「トラフィック」という題をもつ映画は2つあって、
ひとつは1971年製作のジャック・タチ監督のフランス映画。
もうひとつは2000年製作のスティーブン・ソダーバーグ監督のアメリカ映画。

前者はコメディ映画の名作のひとつだが、今回見たのは後者の方。

アメリカとメキシコを行き来する巨大麻薬組織との戦い。
複数主人公制による群像劇。
メキシコシーンのセピアの乾いた色調、ドキュメンタリー調の無理な編集の仕方、
国家と個人、死と信念、どれも新しいものではないが、
随所にソダーバーグらしい演出のアイデアが光る。
デル・トロがアメリカの捜査官とプールで打ち合わせするシーンは、
ひとつこの映画のラストにつながる核となっている。白眉のひとつ。

麻薬撲滅というなら、この映画をテレビはゴールデンタイムに放映すればいい。
日本でも高校や大学に麻薬汚染が広まれば、この映画のような高校生が増える日も近い。

それにしてもベニチオ・デル・トロの陰鬱さがかっこよすぎる。
男でも惚れてしまう。
ラスト10分間の日常描写には、ベタだと分かっていても泣けてくる。
スペイン語を勉強して南米を歩きたくなった。

ラテンのひとたちの、あの腰のくだけたようなユルさは
勤勉で神経症的な日本人にはなく、うらやましい。
でもかといって、学生が家と勘違いして電車の床に座られたりすると、
だらしなさに腹が立ってくる。
風土に適した生き方というものがあるのだろう。

沖縄なんか行くと玄関先に椅子を出して、お婆ちゃんお爺ちゃんが
一日中ボーと座っていて、ああ、こんなユルさの表現っていいなあと
思ってしまう。
ユルいのと品のないのは紙一重か。