2009.09.30
ずっと深淵を覗き込んでいると、深淵もまたこちらを覗き込んでくる

よなかに目が覚めると、鈴虫の重層的な鳴き声に驚かされるというか、神妙な心もちにさえなる。雨がしとしとと降って、雨音が掛け合わさりながら鈴虫は鳴いていた。
人類が死滅しても、こうして鈴虫が鳴き続けていれば、この星もまだにぎやかだ。
中学生の頃の同級生が自殺で亡くなったことを聞いた。
病気でも事故でもなく、自殺。自らの意思でもって、死んだ。
納得いかない感情。やるせなさ。どうして、どうしてだ。
その人とは特に親しい関係ではなかったけど、
中学の頃の笑ってはしゃいでいる顔が記憶にあれば、彼の自死の選択をどのように受け止めればいいのかわからなくなる。
日本では自殺者は年間3万人をゆうに超える。
単純計算すれば、1日に80人以上の人間が自死している。
交通事故での年間死亡者数は約5千人で、それならば交通安全キャンペーン以上に自殺防止への取り組みを国をあげて取り組まなければならない。
いま、こうして僕が机上のパソコンにむかっている最中にも、
日本のどこかで自殺で死んでいく者がいる。
これは統計として表に現れた数字だけだから、実質はもっと多いのだろうし、
その背後の未遂者までを考えると、信じたくないような数字になるのだろう。
数字は関係ないとの意見もあるかもしれないが、この数字は立ち止まって考えなければならない数字だ。
日本では病気で死んだ者も、天寿で死んだ者も、自殺で死んだ者も同様に弔うが、
中国では自殺で死んだ者に対しては口汚く罵り、唾や泥をかけ、怒りでもって葬ると聞いたことがある。
その感性の健全さを羨ましく思う。
自分も精神的につらかった頃は、生きているより死んだほうがましだな、楽だなと思うことはあったけど、実際に実行に移すことはなかったし、その距離はとてつもなく遠いものに感じられた。でも実際に行動に移す人とそうでない人の差はどこにあるのか。
うつ病で苦しむ友人が何人もいる。何人も。
そのうちの一人のホームページには、最近は少し落ち着いたけど以前は毎日死にたいという言葉が綴られていた。
よく癌で余命いくばくもない人が懸命に生きて、命の大切さを訴える人がいるけど、そんなこととは全然関係がない。両者の問題圏が違いすぎる。
一方は生きたくても生きれない人。一方は生きるのが苦しくて死にたい人。クロスするはずはない。
命は自分だけのひとつのものなので、他人に譲ることもできない。
なぜ自殺してはいけないのか、という問い。
自分の命だから、どうしようと勝手、という言葉。
いま、まさに死にゆかんとする人にどういう言葉をかけるのか。
自殺する人を、死ななくする強力にひきとめるものってあるのだろうか。
なにが強力なストッパーになるのだろう。
おまえが死ぬとおれは悲しいという言葉は有効なのだろうか。
自分の実感的な話としては、今自分の親が働いている会社の経営が厳しく、
朝2時半に起床し夕方の6時に帰宅し、帰ってもまだ携帯の電話が鳴っている。
月に休みは4日ほど。それだけ働いてもボーナスはカットされ、給与も危ない状態。
そんな姿を見ているから、とても先には死ねないというか、そんな残酷な仕打ちを親にはできない。
こんな直接的でないかたちでの「生きる」ということの意味の重さが、自分にはストッパーになっている。
この世界は生きる価値があるからとか、生きていれば幸せなことがあるからとか、
ラヴアンドピースだから生きるとかではない世界観で、生を肯定したいと常々考えているし、大袈裟に言えばこのブログを書いているのだって、世界は希望に満ちていることを書きたいわけではない。
どうしようもなく惨めであっても平気で太陽は昇るのだし、草も生えてくるし、巨木は巨木のままでいる。
その世界と自分とのズレって、すごいことじゃないか。例えば、こんなところからの生の肯定。
文学とか映画とか、写真とかこういうことを発見するためにあるのではないか。
だったら、自殺者が3万人を超えるこの国では、完全に芸術は敗北している。
ちょっと今日は冷静にうまく論旨がまとまっていかない。
また自殺についての話は何度でも書くことになると思う。
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2009.09.29
タイトルなし

今日も仕事の帰り、お気に入りのラーメン屋「極」で特製黒とんこつラーメンをすする。
週に1回は来ているな。他のラーメン屋で食べると浮気したような罪悪感にさえなる(笑)くらいここが気に入っている。
だんだんお客さんが増えているみたいで嬉しい。ブログもそうだけど、はじめは訪問客は少なくても、続けていると徐々に支持してくれる人が増えてくる。要はそれまで、店がもつかだけど。
昨日の記事でも書いたけど、自分は少食化しているので、食べ終わる頃には正直満腹感で苦しいのだけど、行くことが習慣以上に使命感にさえなっていて、意地でも来ている感じ。
もちろん旨いから来るわけだけど。
スープはうまいけど麺はいまいちとか、麺はうまいけどチャーシューや煮玉子がいまいちとか、うまいけど店のムードがいまいちとかがほとんどだけど、ここはどこをとっても一流。その全体のバランスも素晴らしい。
多分、僕と同じくらいの年齢の女性店長がひとりで、店をきりもりしている。
炭坑のトンネルから出てきたみたいで、炭火かなにかのせいで顔とか手とかが黒くなっている姿が美しい。泣きそうになるくらい。
プロフィールを見ると、東京でサラリーマンとして働きながらも生活に虚しさを覚え、帰郷してラーメンの修行をし、店を開いたという。そういう経歴にも自分はシンパシーを感じているのかもしれない。
自分は地元に帰ってきたことが、正解だったのかどうか、正直考えることもある。
でもここのラーメンをすすると、帰ってきてよかったな、と思う。
そこになんの理屈もないけど、否定できぬ実感がお腹から湧いてくるのだ。
帰るときはいつも、勘定のタイミングを見計らってレジへ行く。
ひとりで忙殺されているので、仕事の腰を折るのが悪いと感じてしまう。
夜しか行ったことがないので、お昼とかの繁盛具合がわからないけど、まだまだ黒字からは遠い気がするので、バイトの人を雇えるくらいお客さんが入るといいね。
また来ます。
2009.09.28
大いなる幻影であったとしても、

最近はどうも少食だ。
もともと胃下垂の太れない体質なのだが、痩せの大食いというやつで、
いぜんは結構食べてたけど、最近は食べることの快よりも食べないことの快に目覚めたようだ。
それが食欲不振というマイナス的なものからくるのか、判断つかないけど、
元気だから、まあいいのだろう。
昔の日本人は肉も食べず粗食の生活で、重い荷物をかかえ山をいくつも越え歩いていたから、食べる量とエネルギーはガソリンと車で考えられるモデルのように機械的に理解できない。
少食だからといって、パワー不足とは関係ない。
自分には兄貴がいるのではないのかと、ふと唐突に考えることがある。
実際に、兄弟は弟ひとりだけど。自分の上に兄がいるのではないかと…。
妄想以上の実感として、原始の記憶が自分にはある。
人間は生きるにあたって、さまざまなことを記憶しているけど、
一番最初の記憶って、なんだろう。
僕の場合は何歳か定かではないけど、幼稚園よりずっと前の幼き頃、
母親と祖母が言い争っているシーンが明確に記憶としてある。
多分、その時感じた険悪なムードを自分は感知したことは間違いない。
サボテンはどうとか…言い合っていた。
実家が美容室で、そのシャンプー台の上で言い争っていたことも、
はっきり記憶している。自分が間に挟まれて。
その記憶より前か後か…母親が自分が生まれるより前に流産して
亡くなった兄がいることを、父に話していた記憶がある。
そして、そのことを僕にもう秘密にしておこうということを語っていた。
多分、その時の自分は幼すぎて、親としては記憶できないと思ったから、
そのことを自分を前にして話したのだろうと思う。
でも僕は、こうして記憶している。
これが真実かどうか、わからない。
少なくとも、いまは問いただす気にはなれない。
親が死んでしまう前には聞いてみたい気がするけど、
性格上、墓場までこの秘密はもっていきそうだな。
大いなる幻影かもしれないけど、少なくともそんな記憶を
僕は30年近く、いきた。
2009.09.27
魁!!われらの住まう世界

街を歩いていたら、えっ?こんなところで?というところで
蜘蛛の巣が顔にかかった。
街のビルディングの間での出来事だったので、一瞬なんのことかわからなかった。
世界はなにによって支えられているのであろうか。
「魁!!男塾」という漫画があって、僕が小学校の頃熱中して読んでいた。
いま、冷静に振り返って考えるとこの作品の荒唐無稽さに感動さえ覚える。
たとえば、指3本で攻撃する男がいて、でも実は指1本を使っての攻撃の方が強かったりとか、死んだ人間が平然と生き返ったりとか、人物表現のスケール(身長)が大きすぎたり、枚挙にいとまがない。
でもそんなことは突っ込みはいれながらも、漫画を熱中して読むのに邪魔にはならなかった。
つまり、作品のリアリティとしては充分成立してたわけだ。
作品のリアリティが成立するためには、論理的な整合性など不要なのがこれでよくわかる。
敷衍していま、ここで生きているこの世界について思考してみると、
けっして論理的であることの整合性がわれわれの生を支えているわけではない。
昨日の自分と今日の自分が同じである保証などどこにもないし、
歩いているだけで、暴漢に襲われ死んでしまうかもしれないし、
空にUFOが飛んでいるのを見るかもしれないし、
日本という国が突然消えてしまうかもしれない。
(敗戦時の8月15日など、そういう日であったにちがいない)
別に世界は論理的整合性などに依拠して存在していないどころか、
凶暴なまでの荒唐無稽さと矛盾に満ちている。
法律とか制度とか、学校とか会社とかって、
そういう世界の荒唐無稽さに対して、なんとか整合性を与えようとする人間の
涙ぐましい営為なのではなかろうか。
蜘蛛の巣は、どこにでも存在するのだし、どこにあってもいい。
こういう世界の受け入れ方。
世界、万歳!!
そういう意味で「魁!!男塾」の世界とそう大差はない世界にわれわれは生きている。
(こういう話って、なぜ学校でやらないのだろう。教師力によるのだろうが、役に立たないことと不要であることは別なんだけど。正解とか不正解とはまったく別の次元の話をもっと、もっと。)
さらに論をすすめたい。
宅間守という、身の毛もよだつ悪に悪を重ねた凶悪犯がいた。
彼はたしか、上流階級の人間に世の不条理を味あわせたいと語っていた。
べつに彼を擁護するつもりなどないが、お金や地位に守られた人間は
世界の荒唐無稽さから守られている(ような気がする)。
ホームレス生活を送っている人は、明日の天気や寒さなどからダイレクトに
影響を受けている。「家」というのは気象という荒唐無稽さからわれわれを
守っているともいえよう。
宅間守の襲う対象は、生活レベルの高い人間でなければならなかったと話す。
世界の荒唐無稽さに翻弄され続けられた(と思いこんでしまった)宅間の呪詛の根底に、ここで僕が語った世界観を極限にネガティヴにとらえたものと同じものがある。
***
タワレコに行ったら、ハンバートハンバートがタワレコ限定発売とかで特集されていた。
佐野遊穂さんのやさしい澄んだ声が聴きたくなって、アルバムを思わず買った。
2009.09.26
酔狂の夜に引用す

ずいぶん呑んでしまった夜。
社長から高価な酒を奢られる。
高級なお酒は酔い方もまた高級で、
体の芯からじっくりと酔わせてくれる。
発泡酒の酔いはつくづく雑だと思う。
自分は酒は強い方ではなくて、体調によっては蕁麻疹みたいなのが
出ることもあるけど、高級なお酒は快調に呑める都合よくできた身体。
酔っての帰り道。
鈴虫が度を越したように鳴いているというか、叫んでいる。
酔った耳で聞くと、確かに鈴の音のように聞こえた。
今日は好きな言葉を引用して深く寝よう。
「人間であることのくるしみをくるしみとしながらも
くるしみがそのままでそこからの解放であるような音楽」
高橋悠治
2009.09.25
ドゥナの瞳

映画「グエムル」のポン・ジュノ監督について調べていたら、
韓国女優のペ・ドゥナのブログに行き着いてしまった。
ハングルで埋め尽くされたブログって見た目美しい。
(グーグルで翻訳ができるのもすごい。ちゃんと訳せてないけど…)
僕は以前、韓国に旅行に行ってからというもの、
ハングルの記号美にある高いデザイン性に深く魅せられた人間の一人である。
http://blog.naver.com/hnpl46/
ペ・ドゥナのブログ。お国柄なのか、
日本の有名人の広報的なあたりさわりのないブログと全然違って、
生っぽいというか、自然体すぎて驚かされる。
すっぴんとか下着姿?とか平気で見せているし、精神不安定の率直な発露や
女友達への狂おしい感じの愛情表現を隠さない。
ほんとに他人の日記をのぞいているような感じすらある。
ソウルの街なんか歩くと、女の子同士は普通に手をつないでいて、
はじめびっくりしたことを思い出した。
まあ、こんなことを書きたくてペ・ドゥナのブログの話をしたわけではない。
ペ・ドゥナは写真愛好家でかつ日本が大好きらしく、よくお忍びで来日して
日本の風景を写真に残している。
その写真から立ち上がってくるものは、あきらかに外国人が見た異化された日本の写真で、
同じものを自分が撮ったらこうはならないことの不思議さに考えあぐねてしまう。
山手線内の写真だろうか?はじめ完全に韓国の電車内の写真だと思った。
自分が日本のなにかを撮れば、そこに「慣れ親しみ」といった成分みたいなのが溢れ、
外国人だと「もの珍しさ」みたいなものがその視線の根底に流れる。
無機物としてのカメラだが、そのファインダーから覗かれるまなざしによって、
あがってくるものは全く違うものになってしまう。
富士山を日本人が撮るのと、外国人が撮るのとではまるで違うものができてしまう。
写真でも映画でも。
それが不思議でたまらない。
「腰」みたいなものが座ってない感じと言えばいいのだろうか。
でも腰ってなんだろう。
その土地で生きていることの確信みたいなものだろうか。
でも確信って…。
光なのか?光の捉え方なのか?
ドゥナの瞳に捕らえられたジブリの森の日本語の文字が、
日本語でないように見える。
ハリウッド映画で出てくる、あるいは聞こえてくる日本語のように。
2009.09.24
過去の新しさ

連休明けの仕事はさすがにしんどい。
意識は先走っていて、肉体がついていかないのか、
肉体が先走っていて、意識がついていかないのか、
それさえわからない。
でも人間働く動物だなとつくづく思う。
労働って誰が考えたのだろう。
これがなければ、人間が人間でなくなってしまう。
「懐かしい」という一挙に押し寄せる抗しがたい波のような感覚、感情とは一体なんだろうか。
YouTubeの信じがたいほど無尽蔵な過去のアーカイブ動画を横断して見ていると、「懐かしい」、「懐かしすぎる」という感情に圧倒されてしまう。
「思い出」とか「記憶」と呼ばれるものにはかなり膨大といってもいい層の厚みがある。映像から喚起されるのは、過去に自分が生きられた世界そのもので、あるひとつの出来事だけを思い出すということではない。
中学校の自分と小学校の自分、今の自分が感じる世界の手触りみたいなものは全然違う。
その柔らかいかたまりみたいなものが、連結してつながっているような過去の集積。
懐かしいことの迫力は、この過去の世界の手触りや質感といったものが、映像や音楽といったものを契機に「今、ここに」唐突に強引に到来してくることの凄みではないか。
その過去の世界のボリュームと現在がコンフリクトして呆然としてしまうのではないか。
予備校時代に「文學ト云フ事」という深夜番組があって、この構成や音楽にかなりハマっていてビデオテープが擦り切れるくらいに熱中して見ていた。
これをふとしたきっかけでYouTubeで出くわしてしまって、予備校時代の空気とか友人とか高揚感とか全てが再現されてしまって、どうしようもなく気持ちが高ぶった。
メインに井出薫という女優がいて、イデカオルという固有名詞を発話するのも10年以上ぶりなのであった。
過去はいつでも新しく、未来はいつでも懐かしい。
2009.09.23
躙って入られよ

これが茶室の入り口の「躙り口(にじりぐち)」。
利休考案。
狭い。信じがたいほどに。
刀を差していては、入ることができない。
犬のように四つん這いの無様な格好でないと入れない。
ここで世俗的な地位、身分、奢りなどを払い落とすのだろう。
利休が相手にしていたのは、信長や秀吉など自身の生殺与奪の権さえ握られた権力者である。
これを見れば、利休にとって茶の道が権力や政治などとは大きい位置づけにあったことが理解できる。もっと先を見ていたということだ。
数百年前にこういうコンセプトを真剣に考え、大工に指示を出し、具現化させた人間がいたことを考えるだけで、すげえなあとただただ感心してしまう。
2009.09.23
茶と死

季節の変わり目のせいか、とにかく眠い。
人生限られているのだから、眠りを少なくして起きている時間を多くしたいと思うが、野口整体の体癖表によれば自分は眠りに充実感を覚える体癖らしく、どうしようもないようだ。
4,5時間で充分な人もいれば、8,9時間眠らないとどうしようもない人もいる。どちらがいいとか悪いとかではない。
茶道というものに長年関心があって、本を読んだり茶室を見たりしている。
実際に茶会に参加するまではいってないけど、形式的な縛りが少なくて男だけの茶会みたいなのがあったらいいのにと思う。
茶道はいまやお金持ちの奥様、お嬢様の芸事になっているけど、本来は戦場へ死にゆく武士を前に一期一会で対面し、お茶を点て、一服するというギリギリの場面でのもてなしの様式であった。
ちなみに茶道を確立した千利休も弟子の織部も山上も時の権力者に殺されている。そんな凄まじい世界であって、決して優雅なものではない。
戦国時代は当然、今より死は近いところにあって、虚無や無常、輪廻や再生といったものがリアルに認識されていただろう。そこに茶道という死をも包括した粋の極みが花開いていることに、いまさらながら「日本」というものの底知れなさに身震いする。
贅というものを、こういうところから語りたい。
それは死を前にして死を乗り越える、念仏ではない語る言葉があり、所作や沈黙、居住まい、美しい味や美意識といったものがあったということ。
そういったものは、自分も含めて、日本から失われたものかもしれない。
僕の敬愛する茶人 山上宗二は、自身の到達した茶道の信条を曲げることなく、秀吉に何度もたてつき、しまいに鼻と耳を削がれて斬首された。数年前、箱根湯本の早雲寺にお墓参りに行った。苔むし、蝉の声だけが聞こえていた。
茶道と死について考えていたら、死を待つ人々の家や特攻隊の人が最期に飯を食った食堂について思いが広がった。死を排除するのではなく包括できる社会が経済的な繁栄より本当の豊かさをもっている社会だ。
自分も死ぬときに茶道のような様式でもって、自分の死(生)と静かに向き合うことができたら、どんなにか素晴らしいことかと思う。やっぱり病院とか介護施設とかは嫌だなあ。

2009.09.22
しるし

昨日記事にした川上未映子の『ヘヴン』という小説には、剛毛でひげがうっすら生え、風呂に入らず服も靴もきれいにしないコジマという少女が登場する。自分が読んでいてもっとも共感できた人物。真似はできないけど。
コジマのことを考えていて僕は大学の頃、ひげは生えていなかったけど実際に風呂に入らない女性が友人にいたことを思い出した。
彼女は確かに風呂のないアパートに下宿していて、貧しかったのだけど、銭湯に行けない金銭的な理由で風呂に入っていない感じではなかった。
それは明らかに強い意志でもってなされているというのがヒシヒシと伝わっていた。
彼女の頭は油でてかり、ふけだらけで、服の襟は汚れ、皮膚はガサガサで近くに行くと酸っぱい匂いがした(ああ!まったくコジマと同じ)。目に憂いというか気になる影があった。みんなが笑っていても彼女だけ目だけ笑ってなかった。
そんな彼女が自分は気になって、みんなから距離を置かれている感じだったけど、自分はよく話しかけていた。だいぶ親しくなって、思い切ってなんでお風呂に入らないのかと聞いてみたが、明確な答えは返ってこなかった。そこになにか外傷(トラウマ)的なものがあるのは、わかっていたがそれが何なのかはついに聞けずじまいで疎遠になってしまった。
今回この小説でコジマの生き方を見て、彼女の一片をやっと理解できたような気がした。
まさに彼女はコジマだったのだ。
自分の人物理解の浅さにがっかりするけど、彼女の深い絶望を前に自分は徹底的に無力だったことを思い出す。
10年経った後でわかってくる真実があるなら、少しでも長生きしたいと思った。
小説はこういうことを平気で媒介する力があるのだ。
今、思い出したのだが、そのお風呂に入らない彼女とは反=携帯同盟というのを組んでいて、ふたりとも人間から孤独を奪っていく携帯電話の普及に対していらだちを感じていて、もう周囲で携帯を持っていないのは2人だけになっていた。でも、自分が働くようになってからは仕事でどうしても必要となってしまい自分は携帯を買ってしまった。それが裏切りとうつり疎遠になってしまったのだろうか。それだったら、彼女はますますコジマのようだ。
コジマや彼女のような女性の受け身による怨嗟はなかなか男には理解できないし、男が抱え込む性の暴力性の問題も女性と共有することは難しく、平行線をたどる。
昔、大学のゼミでこんな内容のことを議論してたら、最後のまとめでリーダーの女性が「男の人はセ×××の時に女の人の苦しむ顔が見たいということですね」というまとめのコメントを出し、皆唖然としてしまった。
2時間くらい皆で懸命に激論して、そこに落とされてしまった。。教授だけクスクスしてたけど。