fc2ブログ
2009.08.31 ものもち
kusu 2009.8


スーパーに秋刀魚(さんま)が並びだした。いよいよ秋か。
でもまだ買う気にはなれない。
体がまだ秋に染まってない。
心の底から秋刀魚が食いたいと思うまで待つ。

NHKの硫黄島での皆既日食のレポートをYoutubeで見つけた。ダイジェスト版でなくて、本編のやつが素晴らしかった。日食の映像そのものももちろん素晴らしいが、レポーターが本気で動揺しているのが生々しく伝わったり、なにより絶え間なく聞こえる波の音が素晴らしい。天文解説者らしき人の冷静なコメントもまた素晴らしい。削除される前にぜひ、検索してご覧あれ。




部屋を整理していたら、抽斗の奥から過去の年賀状をファイルしたものが出てきた。
自分はものもちがいいというか、もらったものを捨てられない性分で、20年前のものとか平気で持っている。小学校時代に集めたビックリマンシールのファイルとか昭和60年代の年賀状が出てきた。懐かしい。懐かしすぎる。どの年賀状もはっきりと覚えている。おもしろいことが、過去であればあるほど覚えていることだ。去年の年賀状の方が覚えていない。

もらった年賀状には、もう勉強しなくていいよとか、部活に来いよとか。たまには息抜きしろよとか、そんなことが書かれてある。そんなに勉強はせずに外で遊べと先生からも注意されている。どんだけ勉強してるんだ。そんなにガリ勉だったのだろうか?健全なガリ勉じゃなくて、多分病的な感じのガリ勉だったのだろう。笑
今さら顔が赤くなる。確かに中学の頃は、隣区の高校への越境入学を目指していて、精神的にかなり追い込まれていたな。。そんな自分を周囲は気遣ってくれたのだといまさら思うと、20年後でも泣けてくる。ありがとう、みんな。

年賀状を見ていると、ある傾向があるのに気付く。それは遠くに転校していった友達と長く年賀状のやりとりをしていることだった。学校時代に一番仲のいい友達というのがいると思うが、そんな友達が必ずといってもいいほど転校して遠くに行ってしまうことが多かった。友達が去っていく喪失感、最後の別れの場面などよく覚えている。ほんとは泣きたいくらい寂しいのだけど、男同士なので気恥ずかしさが勝り、それはできない。

最後の2人の下校のなんとも言えない時間。早く家に帰り着くのはもったいない、しかし喫茶店とか寄る発想もない。でもはやく帰らないと泣いてしまいそうだ。こういった不器用さに青春というものが宿っているのか。

遠くへ行った、K、K、Kくん、Nくん、K氏。
なぜかKが多いが、みんな元気だろうか。


スポンサーサイト



2009.08.30 誓います
朝日新聞より、芥川賞作家 磯崎憲一郎氏の言葉。

「小説を書かない人生もありえたが、小説家としての人生を歩むように導いた強い力があった。その力のしぶとさに畏敬の念すら感じる。この強さは私の意志の強さではなく、芸術が自然とつながっている強さ。今自分がいるのは、自然から生まれ、自然に返っていく途上だと思う。芸術から与えられた使命を全うすることを誓います」

この小説観、世界観に素直に感動する。元気がフツフツと湧いてくる。
表現はやっぱり業なのだ。それには逆らえない。


kagayaku edamame


枝豆が毛深いので夕日に当ててみた。
黄金色になった。
でもその時、黄金色になっていたのは、枝豆だけではなかったにちがいない。
塀とか壁とか、アスファルトとかすべてが夕日のためのキャンバスになって。
こういうのを平和と呼びたい。

グーグルのトップページは、そのロゴが日々イラストとして変化している。
こういうマッキントッシュ的発想が好きで、昨日はgoogleの「oo」の部分がマイケルジャクソンの足になっていて泣きそうになった。今日は選挙のイラストだった。

朝から投票に出かける。投票所は母校の中学校で、校舎に入るのは10数年ぶり。
全てが懐かしい。あの樹もその木陰もあの雑草が激しく生えるところも、時計も渡り廊下のひんやりした感じもすべて克明に覚えている。体育館裏の死角になる場所は悪友と悪さをするところで、ベンジンで火炎瓶をつくった記憶が蘇った。ベンジンメーカーの会社名まで思い起こすことができる。

火炎瓶に火をつけ、その友人と橋の下のコンクリート壁に思いきりぶん投げた。
壁に当たって割れた火炎瓶は、中のベンジンを周辺にまき散らし、炎の海をつくった。あの炎の海の広がりが今でも忘れられない。アナーキーという言葉は知らなかったけれど、その本質の一片をあの炎に見たのは間違いない。中学校時代の記憶はあの一瞬の炎に収斂されたのかもしれない。これでも表では模範的優等生だったのだから笑える。というか酷い生徒だ。

体育館から聞こえるバスケットシューズの床をキュッキュと鳴らす音を懐かしく聞きながら、火炎瓶のことを思い出していた。



探偵ナイトスクープで、幼い時に父親を失った高校生からの依頼。
なんでも父親が元ヤクルトの飯田選手に顔がそっくりだというので、亡くなった父親の代わりにキャッチボールや肩車、腕相撲、人生相談をしてほしいという内容。
飯田選手との1日。律儀に飯田選手は青年のリクエストに応えていく。ロールプレイング。(かつて父親が着ていた服を着て!)相当、残酷な感を受けたのは自分だけか。
番組のテイスト上、笑いの方向性へ引っ張っていたけど、笑えないと言うか、それは父親を失った青年にとって切実で逼迫した何か忘れ得ぬ決定的な1日となったのではないだろうか。その青年はずっと泣いていたし。

幼少時に親を失った喪失感は自分にはわからないけど、この体験は青年にとって将来どう反復されるのかが知りたい。彼が父親に似た飯田選手を前に、その近似性より差異性に目を向けることで「父親はもういない。誰も代わりはできない」という認識にかえって達することできたら、それはこの番組の企画も青年にとって成功なのではないかと勝手に思った。
人は何かを失ったと思うことで、何かを失う。しかしそもそも、何を失ったのだろうか。

黒沢清監督の「ニンゲン合格」という映画の一節。
記憶障害の主人公。周りが失った記憶を埋め直そうと、過去の雑誌や新聞を集めてきて必死に失ったものを与えようと努力するのだが、主人公にはその意味がわからず、「おれ、なにを失ったの?」と問う印象的なシーン。

少し話しがそれるけど、従軍慰安婦問題や南京大虐殺が問われるとき、いつもそれはあったのか、なかったのかが焦点となる。タイムマシーンでもない限り、それを検証して証明するのは難しい。
フロイトの精神分析学では、問題は実際にあったか否かではなく、その〈傷〉をリアルに生きたかどうかが問題で、幻想でもそれを〈生きた〉ならば、それは現実となる。左右の歴史家ともこの視点はない。
以前、幻聴症状をもつ友人がいて、「Aがおれのこと~って悪口言っていたんだ」と相談された。その場合、いやそんなこと言うわけないじゃんとか言っても始まらない。言っていたかどうか本人に聞いてみようかと言っても始まらない。彼は悪口を言われた〈現実〉を既に生きたのだから、それは〈真実〉だとして話を聞かなければいけない。

タイトルの問いに対しては、取り戻せないし取り戻せるという両義的な答えしか今の自分には出せない。でも自分は失ったものは二度と取り戻せないんだ、と思うことの方が元気が出るのはなぜか。
世界は常に楽天的な認識を拒絶する。




自分は収集癖はないのだけど、以前カエルグッズを集めていた時期があった。

顔がカエルに似ているということを周りから言われるようになって、そうかなあと自分で思っていたところ、数年後また別の人にカエルに似ているよねと言われ、なにか動揺してカエルのことを真剣に調べていたら、カエルのことが猫と匹敵するくらい好きになってしまった。他人の言はなぜこうも人を翻弄する力があるのか。

カエルのかわいさ、素晴らしさを書き綴ると、原稿用紙でどれくらい書けるのだろうか。
あのけなげさ、一生懸命さ、素直さ、飛んだ時の表情の変化のなさ、思い切り飛びすぎて着地がスマートにいかなくて手足が乱れ一瞬慌てる様子、両生類らしく陸も水もどんどん踏破するマイペースさ、稲と同色で潜んで隠れているつもりだけど思いっきりバレてるさま、背中にのっかってる交尾の格好のなんともいえないユーモラスさ、交尾しててもけっこう移動する、、、こんなことを書いているだけで心和む。

本物は飼えないので、グッズで欲望を代替していたのだろうか。
はじめはこのがまくんだけだったのだが、

がまくん





カエルグッズを集めているんだということを周りに吹聴すると、旅先でおみやげとして買ってきてくれたりするようになって、、数ヶ月でもう、、







かえるたちよ


これくらい集まった。。

はじめは軽い気持ちの冗談半分の収集だったけど、この増殖率にビビって、もう集めない宣言をした。増やして、どこに向かうんだという方向性や覚悟が全然なかった。笑

みなさんも何かを集めたい時は周囲にそれを伝えると、あっという間に増えていくことと思います。





カエルと手をつないで、ルイ・アームストロングの「この素晴らしき世界」を歌うことを夢見る。(別に薬物はやってません、笑)


「WHAT A WONDERFUL WORLD」

I see trees of green
red roses too
I see them bloom
for me and you
And I think to myself
''what a wonderful world!''

木々の萌えあがる緑も深紅のバラも
その美しさは誰に見せているのか。その美しさは誰のためか
わたしたちのためだけに咲いてくれているのではないのかと、
ふと思ったんだ

ぽつり、ひとりで言ってみる
「この世界はなんて素晴らしいんだ」

I see skies of blue
and clouds of white
the brihgt bressed day,
the dark sacred night
And I think to myself
''what a wonderful world!''

青一色の空に、純白の雲!
今日はなんでもないけど
輝ける祝いの日としよう
じゃあ夜は聖夜だ! いいねえ

ぽつり、ひとりで言ってみる
「この世界はなんて素晴らしいんだ」

I see the colors of the rainbow
so pretty in the sky
And also on the faces
of people going by
I see friends shakin' hands
sayin' "How do you do?"
I know they're really saying
"I love you"

空には虹がかかっている
行き交う人々の面々に虹が映っていた
すっかり疎遠になった
あの人かの人を思い出したよ
皆手を取り、はじめましてと挨拶している
それは「愛してる」と言っているんだよお

I hear babies cryin'
I watch them grow
They'll learn much more than I'll ever know
And I think to myself
''what a wonderful world!''
Yes, I think to myself,
''what a wonderful world!''

赤ちゃんは泣いて成長していく
大人もおなじだ
彼らはきっとわたしより多くのことを学び
成長していくことでしょう
今より少しでもいい世界をつくっていくために

ぽつり、ひとりで言ってみる
「この世界はなんて素晴らしいんだ」
ああ、生まれてきてよかった
あの時、死ななくてよかった

(思い切り意訳 1,000plateaux)




今日は久し振りの休日で、なんだか浮かれているのか。
部屋を整理していて、梱包されたカエルグッズが出てきて、
開けてみたら、なにかが解放された気がした。
もうこんなグッズを陳列している年齢ではないけど、
たまには出してあげようか。





another


なぜかバッタが部屋で転がっていた。固くなっていた。
この家はチーズのように多孔質で、きっといろんなものが侵入してくるのだろう。
来るものは拒まないのが信条だから、それでもかまわん。

人も虫も死んだら物になる。残酷なまでに。
物質って残酷だ。
沈黙が深い。
バッタの冷えた体表に緑色が鮮やかだった。
庭に放って、蟻に食べてもらうことにした。

自分の庭でとれた枝豆は毛深かった。
野放図に育てるからだろうか。スーパーのものより断然毛深い。
農薬を使わないため、毛虫との共生。毛虫に負けなかったものを食す。


「はっきりしていることは、〈流祖の時代〉の刀法は、予測を許さない禍々しい敵手との百年の葛藤の末に生み出されたということです。そうした敵手を背腹に受け、脅しも、すかしも、厭がらせもしないものが、上泉伊勢守の刀法であった。彼の刀法がこの時代を制したことは、文化上のひとつの奇跡にほかなりません。制したとは、単にたくさん勝ったということではなく、勝つことの意味を変え、敵手を説得する「太刀(かた)」の価値を創造し、下克上を超える晴れやかな生の肯定をもたらしたということです。私が稽古する刀法は、このような一人の人物を明確にその起源に持っています。(略)」『剣の思想』甲野善紀・前田英樹


何度この文章を反芻しただろうか。
ここに書かれてあることの全てを理解出来ているわけではないけど、ここに書かれてあることの偉大さ、重大さだけは明確に感知することができる。直感的に。

インターネットを使えなかった頃、図書館のインターネットサービスでこの文章と出会った時の衝撃、心の底からの喜びを今でも思い出す。

「勝つことの意味を変え、敵手を説得する「太刀(かた)」の価値を創造し、下克上を超える晴れやかな生の肯定をもたらしたということです。私が稽古する刀法は、このような一人の人物を明確にその起源に持っています。」

自分の生きている起源ってなんだろう?

自分のちっぽけさを自覚させる文章にはそうそう出会えない。
それが嬉しかったのだ。



2009.08.27 そわそわ
Cryptomeria japonica


昨日の記事で吉増剛造の詩を掲載しながら読んでいたら段々脈拍が早くなってきて、ぐったりと疲れてしまった。言葉の気を当てられるというか、吉増の言葉は破壊と創造を同時にかつ瞬時に遂行しているような、恐ろしい密度。狂気すれすれ、いや狂気まるだし。

今朝寒くて目が覚めた。起きたら掛け布団が向こうの方にいっていて無防備だった。風邪をひくかと思った。朝晩はもう秋が勝っている。
秋口の、心にスーと空洞ができるようなこの感覚はなんなのだろうと、いつも秋口が来るたびに思う。胸に隙間ができるような感覚。落ち着かなさ。頼りなさ。人恋しさや、冬の準備をしなくてはいけないような、そわそわ感。冬の準備とはいっても、山暮らしではないから薪とかは必要ないけど、それに近い焦燥感が沸き始める。なにか原始の記憶がそうさせるのだろうか。

でも夏の開放的な気分より、秋の寂光とかがたまらなく好きなのは、内向的な性格のせいだろうか。落ち葉が冷たい木枯らしに吹かれて、かさかさと舞ったり、一カ所に吹きだまったりする情景。朝の寒さが一挙に秋を思い起こさせる。

今日、贔屓にしているラーメン屋さんに寄った。いつも客は自分一人で、この店は大丈夫だろうかと心配になるのだが、今日はお客さんが多くてよかった。こんなにお客さんがいるのをこの店で見たのは初めてだった。よかった。よかった。

syuzenji


「キリマンジャロは標高六〇〇七メートル、雪に覆われた山で、アフリカの最高峰と言われている。その西の山頂は、マサイ語で“ヌガイエ・ヌガイ”、神の家と呼ばれているが、その近くに干からびて凍りついた、一頭の豹の屍が横たわっている。それほど高いところで、豹が何を求めていたのか、説明し得た者は一人もいない。」
『キリマンジャロの雪』ヘミングウェイ

この乾ききった文体にシビれつつも、「ヌガイエ・ヌガイ」という言葉がマサイ族によってどのように発語されているのか気になる。

ヘブライ語の「エリ・エリレマ・サバクタニ」以来の言ってみたくなる呪文のような異国語。これが既知の英語やフランス語ではいけない。



ぼそり、「ヌガイエ・ヌガイ」と言ってみる。

マサイ族の人と話してみたいと思った。

ヌガイエ・ヌガイ、ヌガイエ・ヌガイ、ヌガイエ・ヌガイ…。


日本語を未知の異国語のように聴いたり、書いたりすることを夢想する。
吉増剛造の詩に、その世界を見る。
(ヘンテコな改行あるがご容赦。以下引用)



  「波のり神統記」吉増剛造



   月は昇るさ

   古代のように

   墓に登って祈ろうじゃないか

   太陰文月七日

   ぼくは都会を脱出する

   絶対の花弁!

   おお

   太陰暦を積んで北方へ航行する一隻の船よ!

   もはや異教風な

   歳時記の正義にかけて

   ぼく・裸形・剣

   進むか、否か

   それは問題ではなかった

   カナダライを叩け!

   夢と現実の分離機は崩壊した

   隠喩の王権を放棄し

   犬のように

   世界の傾斜を転落せよ!

   まず

   赤裸のアカ消去する算法の摘出、コレガ護符ダ、マジックだ!

   絶対の花弁

   と個人的な注解をつけて

   超正常の人体が

   人民日報の明朝活字を通過する輝かしい宵

   狂気への彫刻刀は振りあげられた

   スクリーンは赤だ!

   ある日曜日

   音もなく

   ビルから落ちる人体よ

   ぼくは

   女のように

   肌を磨いて

   都市の東の城門に立つ

   卵形の影像だ

   惜しいとも

   恥ずかしいとも

   思うことはとうに終った

   ただ

   ぼくはふりかえり

   憑かれたように 愛だ! 愛だ! と叫ぶ青年を美しいと思う

   この夏の宵

   世界ときみは幾何学的疑惑だ

   きみと世界は抒情的奇蹟だ!

   突然

   ふり返って

   バスをゆびさして

   大蛇の群だ! と叫びたまえ!

   そこから

   本当の予言が始まるかも知れない

   また

   地下鉄に乗らずに

   偉大なチャールズ・チャップリンのように、崖っぷちをスケートして、

夕陽に向って歩いてゆこう

   きっと

   アラビア数字の7のように

   きみにも自殺の構造がよみがえり

   金色の柔肌を螢が包囲して

   その陣形のまま

   肉体は爪先から腐上するだろう

   言葉ケス力 太陽の崩壊

   夢ケス力 太陽の再生

   魂を叩け! 空を斬れ!

   なまぬるい風が吹いてくる

   陰毛へインクビンの集中が盛んだ

   ああ 生きよか 笑わせるな

   おお

   パパラッツオ!

   無名の人よ、消えた影像よ!

   アイスキュロス風に壮大に

   ものごとは考えられるべきだ

   日ノ丸ニ風吹ケ!

   エンジンよ! 第三京浜国道で燃えあがる神木のように絶叫する、

ガソリンの涙に、引潮

   に、去ってゆく物質の後姿に、祭壇をもうけて踊り狂おうぜ、

緑の仮面つけて神のよう

   に、涙を流して夜明けまで

   夜明けまで

   生命終るまで

   論理的整合はポー

   花のお江戸の金襴緞子

   おお

   ミシェール!

   新しい神の仮面割れて

   毒薬の一滴を

   これら

   赤裸の魂の発電所に空転の剃刀の矢羽根を、

言葉の戸口に永遠にかけられた雨傘濡らす数

   学的肉体の存在を!

   さらに大量のスカーフを

   我々の魂の鍵盤に投下し、我々を狂気へ、流転する紫の花に変貌させたまえ



   海へ

   交叉する手の神殿へ

   道路を剃刀で斬りながら、ドドッと吃って、アクセル踏んで、

ああ 死体に会いにゆこう

   李白的快速は物質を変形させる

   海へ

   あるいは

   金環蝕のような生涯



   ああ ヨットはななめに通過する

   いつもながら

   新鮮なラジオの音だ!



   あれがアメリカ

   腐ったエレベーターが海底から立ち昇ってくる

   ラッキー・ストライク、ジャスパー・ジョーンズの標的めがけて、

魂・飢餓の弓づるヒョーウと鳴って

   今年こそ溺れてもよいと

   心に決めた

   鎌倉・由比ヶ浜

   私小説的な単独行の水しぶき

   なんという

   青春は短剣のように握りつぶされ

   海のなかの散水車

   喜劇的な電源、血だまりへの落雷だ!

   太腿よ!

   太腿よ!

   これは

   太陽のしたの乞食劇か

   それとも

   お笑い、だけか!

   しかし瘋癲病院は陸地に建てられるべきではなく、

青い青い海の中に放流されるべきだ

   それが序の幕

   X・Y・Z軸に裂かれる精神の波頭の、開闢の方位

   永遠に浮游しよう

   所有格なしの水母[くらげ]万才!

   たまには金髪の少女を愛撫して

   正面の鏡に性器をうつす

   子午線上に魂をはこぶ真赤な神統記!

   ああ 波に酔った

   犯シタアノ娘[コ]ノ事ガ追憶サレル

   どうして

   同時に

   予言者カッサンドラが脳裏にうかぶのだろう

   いま砂浜で

   詩一篇書きながら

   絶対の花弁

   と書いて……

   ああ

   歳時記を抱こう、もっとしっかり

   多島[エーゲ]海に手足がしびれ

   発光物質のように多声界が、肉のあらゆる空間を占領する

   おお

   ギターをたたきつけろ、砂浜に

   ビートルズ・オルペウス・魂のハルモニア

   空のむこうに

   そびえている現実よ!

   おお

   ギターをたたきつけろ、砂浜に

   ビートルズ・オルペウス

   魂の鏡の部屋よ!

   塩みちる、海亀の疾走!

   ヴァレリに

   <狂乱の性[さが]もつ大海原よ>

   と頌えられた大滄溟[おおわだつみ]は

   瀑布となって

   ほかの遊星へ

   直角に流出する

   鐘が鳴る、水死体の浮上だ!

   ガ泳ゲ!

   ああ

   海は長髪のようだ、流れにそって金魚鉢を透視する眼の回転!

   ふたたび波頭に浮ぶ

   王女の濡れた花弁、二枚

   赤褌の交叉する心臓、ブラウン管の破裂!

   ああ 言葉よ 自殺シタイ

   イタシ殺自 殺シタイイ!

   抜け!

   男根と言語王国を!

   ああ

   神よ!

   神よ!

   神よ!

   神よ!

   神よ!

   カッ!

   井戸を落ちてゆく真赤な眼の声よ!

   落着け

   右のつぎは左だ

   呼吸を忘れるな

   船はくるか

   歌は聞えるか

   ふっと

   涙がこぼれて

   砂浜の人たちに

   手を振ってみる

   しかし

   映画館のように

   悲しげにひろがった

   景色だなあ

   太陽は西の岩角に落ちかける

   もう

   魂は言葉と交感しない

   月は昇るさ

   古代のように

   とつぶやきながら

   太陰文月

   ぼくは

   世田谷・駒場の箱宇宙にもどり

   コカ・コラ壜、わたごみ、性欲の残照にかこまれて

   静かに

   風のことを考え

   国木田独歩を読んだ



   ただ

   火の霊[タマ]の進撃!

   ねむり

   火の霊[タマ]の………

   ねむり
2009.08.25 不覚だぜい
twin


湿っぽい、お涙頂戴、ドロドロ、日本海くさい、歌詞があり得ない、ダサイ、加齢臭がする、あのこぶしがどうにも生理的に受け付けぬ、などど昔友人と演歌の駄目さ加減を言い合っていた。
その頃、ジョン・ケージとかスティーヴ・ライヒの現代音楽とかを集中的に聴いている時期で、まるっきり演歌とは対極にいた頃だった。

その友人と鎌倉に遊びに行こうと、レンタカーを借りて稲村ヶ崎などを巡っていた。
当時自分は、免許を取り立ての初心者で運転することに神経を使いすぎて疲労困憊していた。
夜になり、暗くなると余計に神経を使って、疲労度は増していった。
持ってきたCDはリピートしすぎて、もう聴き飽きてしまっていたのでラジオをつけることにした。

するとある演歌が不意にそのラジオから流れてきた。
2人ともチューンを変えずに、そのまま聴いていた。
自分はその時、その演歌が疲労困憊した神経と身体にとても心地よく響いてくるのを感じていた。
つまり、、癒されていた。

でもそれを必死に隠そうとした。でも癒されていたので、ラジオはそのままにしていた。
友人も黙って聴いていた。

遂に自分は口に出した。
自分「演歌って、、しみじみするんだなあ…」
友人「やっぱり、おれたちは日本人だってことを否定できないんだよ!」
自分「(やっぱり、あんたも感嘆していたのか)そうだなあ…日本人かあ…演歌か…」

それから以来、演歌を特別な感情で聴くようになった。CDを買うまではいかないけど。
なぜあの時の自分の身体の芯に、ド真ん中に響いたのか、、それは他の音楽のジャンルでは駄目だったのだ。
それと連動するかのように、昭和の時代に強い郷愁を抱くようになった。

磯崎憲一郎の『眼と太陽』のなかに、海外で演歌を聴いた時の感慨が綴られてあって、シチュエーションは違うものの、自分が鎌倉、湘南で演歌を聴いた感触と似たものが書かれてあって驚いた。




***
テレビではるな愛が霊能者に浄霊を受けている。悶絶しているはるな愛。相当深刻な場面なのに、笑えてしまって仕方がない。


2009.08.25 すずのね
asa no taiyo

夜、外から聞こえてくる鈴虫の鳴き声を聞きながらいつも寝ている。
いつも電気を完全に消して就寝するので、ずっと聞いていると、家の中と外の区別が曖昧になって、
鈴虫に囲まれているような錯覚さえ起こるのもまた愉悦。
夜の気配が部屋の中までに入ってくる。
朝、目覚めても、少数だがまだ幽かに鳴いているのもまたいい。
冷気のひんやり感と朝のさわやかさに幽かな鳴き声が響き合う。

ある時、空調機のファンがキュルキュル鳴いているのに気付いて、今まで鈴虫だと思っていたものが、この空調機の音じゃないのかと疑心暗鬼になって、焦って夜中に起き出して調べた。

勘違いだったけど、それから鈴虫の音を聞くたびに、空調機の音も思い起こすようになった。

2009.08.23 生も死も
柞原八幡宮 クスノキ 推定樹齢3000年

「すると、小さな動物の問いかけに応えるようにして、雲の切れ間から太陽が射し込んだ。見渡す限りの遠くまで白い、家も白い、低い丘も白い、フェンスも白い、丸木のベンチも白い、凍りついた池も白い、楓の木も白い、杉の木も白い、バラの植え込みも白い、枯れてしまった花壇も白い、野ざらしの芝刈り機も白い、雪かきをしている老人も白い、子供の自転車も白い、ゴミ箱も白い、郵便受けも白い、電線も白い、電柱も白い、信号機も白い、空を飛ぶ孤独な鳥も白い、(中略)白いものも、白くないものも、すべてが白かった。」
『眼と太陽』磯崎憲一郎

小説を読み終わったあとの読後感というものがあるけど、磯崎氏の小説の読後感は過去の自分にはないもので、戸惑っている。もちろん肯定的に戸惑っている。豊かな混乱。

その磯崎氏の芥川賞の授与式で、大勢の人の前でのスピーチでこのようなことを言っていたという。
「会社関係の人や友人、親類を含め八十人くらいの人を招待した、壇上からその人たちの顔を見ていると、生きているうちに自分の葬式を見ているようだ」

生と死に大きな隔たりがないこの感覚は凄いな。生と死の敷居が低いというか。
おそらくこれは彼の壇上に立った時のフッとした実感なのだろう。

生と死だけに限らず、正義と悪とか、よろこびと悲しみとか、幸福と不幸とか、あらゆる二元論の敷居は低いのに違いない。

生が死のなかに織り込まれながら、生が死に溶け込んでいる。
それらを分かつことはできないし、分かつ必要もない。
緑の木々が萌えあがっているその横溢した生命感の只なかに死の足跡を見つけ、
解体された鶏のはらわたに躍動する生の余韻を見つけることができる。
目眩がする。

樹齢3000年の巨樹を前にすると、死も生も関係なくなる。
誕生も消滅も同じ出来事として、淀みなく生々流転する現象として、この樹は記憶しているのだろうか?いったいどれだけの人や動物がこの樹を見上げたり、よりかかったりしたのだろうか?
そのほとんどがこの世界にはもう存在しない。