2009.07.31
“それ”を語る

NHKで沖縄戦の特番。戦争を語れる人たちが高齢化し、どんどん少なくなっていく中、筆舌に尽くしがたい戦争体験を語って後世に伝えようとする人たちが増えているという。特に自分が人を殺したという体験は語り難いというか、語れないだろう。でも番組ではそれを語る元日本兵が顔を出して語っていた。この勇気、重さ。その沈黙までカメラは撮っていた。ガマの前で汗が落ち、手を合わせる。
実家では母親が美容室をやっていて、当然いろんなお客さんが来る。
パーマをかけてくれと言ってくる女子高生(母親は断る)や今どきシラミのついた髪の毛でやってくる家族とか。ほとんどが常連客だけど。
お客さんの中に、満州から命からがら引き上げたお婆ちゃんがいる。いまは病気で床に伏しているが以前はよく来ていた。そのお婆ちゃんの引き上げの話。
追ってくるロシア兵。女性は捕まるとレイプされるので髪を切って男装していた。
そのお婆さんは小さいこどもを抱え、祖母も祖父も夫もともに大所帯での逃亡だった。
だが、ついにロシア兵に追いつかれた時、大家族をかばって夫はロシア兵の前に立ちふさがったが、銃剣で斬られ殺された。
夫が立ちふさがってくれたおかげで逃げられたと。
ロシア兵が去った後、たまらず夫のもとに駆け戻ったとき夫はかすかにまだ息もあったという。体を袈裟に斬られ、内臓が飛び出した夫の腹部をもっていた布で縛ったが、やがて息絶えた。
今、そのお婆さんは病気で床に臥しているが、その時の血染めの布はいまも大事に持っているそうだ。孫達はそんなこきたない布は捨ててしまえと言っている。おそらくそのお婆さんが亡くなったら、一緒に棺桶に入れて燃やされるに違いないが、こういう証言や戦争を物語る物はどこかの資料館にぜひ預けていただきたいと思う。
スポンサーサイト
2009.07.30
これで勝負する

味噌ラーメンやら塩ラーメンやらいろいろ出している店は好感をもてない。やっぱりなにか「これだ」というもの一本で勝負してほしいし、そういう店で本気で食べたい。
けれど、自分がデザイナーの仕事をしていた時は何案も提出して、クライアントに選んでもらっていた。粋ではない仕事の仕方だった。1つだけ見せて、その良さを最適解を売り込むことが大事だったのだ。数案出して選んでもらうのが本当のサービスだろうか?
メニューひとつで勝負すること。どのメニューで勝負するのか。
2009.07.29
am/pmの「和風 幕の内弁当」

鶏肉はブラジル産 海老はタイ産 サケはデンマーク産 金時豆はボリビア産 黒ゴマ白ゴマはトルコ産 野菜類は中国産
世界中から16万キロの旅路を経てひとつの弁当に結集。
これが市場メカニズムの出す最適解で、思想も善悪もなければ、もちろん健康などというものが入り込む余地はない。経済にも倫理が必要だということが、自分の体の底からわかってくる。
2009.07.28
抵抗して

帰り道にお気に入りのラーメン屋がある。
いつも客は少ないというか、自分ひとりの時が多い。今日も自分ひとりだった。
若い女性がひとりでやっているようだ。店のカウンターに立てかけてあったプロフィールのファイルを読む。東京で営業の仕事をやっていたものの、充たされぬ日々を生き、お客さんにひとりひとり喜んでもらえるラーメン屋に開眼。地元大分に帰って修行して、独立する。
僕が食べ終わっても客は入って来なかった。
味が難しいのだ。複雑というか、食べてすぐに味の由来がわからない不安。
多様なラーメン文化が成熟した東京では売れる味だが、大分では厳しいだろう。
でも自分は好きな味。味が深いというか、忘れられない味というか、なにより店主の努力や汗が伝わる。博多麺のザクッとした食感がたまらない。奇抜ではなく、スタンダードになるまで生き残れるか?自分は通うことでしか応援できないけど。
らーめん極 月曜定休
2009.07.27
体の芯から目覚めていく

バジルやしそ、なすを収穫。(カラスに食われる前に収穫せねば)
取れたてのバジル、しその香りはむっとするほど強い。野生の力を感じる。
その力をそのまま、まるごといただく。その力は大げさな話ではなく、自分の野生が目覚めるほどの刺激を与えてくれる。われわれは眠っているものがあまりに多い。
スーパーに並んでいるそれは、既に死んでいるものがほとんど。死んでいるものを食べるから、死んだような人間になる。というのも大げさな話ではない。
さっきまで生きていたものを口にするのが、健やかであるとともに倫理的なのだ。
種植えから成長まで全てを見ているし、そんな食べ物はゴミにはできない。だけど自分で創造したものはなにもない。どこまでも受身。でくのぼうのようにあたふたするだけ。自然の恵みにただただ感謝。
2009.07.26
日食

友人より撮影した日食画像を送ってもらう。月のように見えるが、欠けているのは太陽。
関係ないが、グレースケールというか無彩色の世界の清潔さに心惹かれる。無彩色にかすかに青みがかかる。しずかな色の呼吸。
ふとヴェンダース監督の「ベルリン・天使の詩」の色調を思い出し、見たくなった。
2009.07.26
南方新社

『隠された風景』著者福岡賢正という本を読んでいる。
この本は「自殺」や「屠畜」「動物保健所」といった現代では隠蔽される死の現場を取材した良書。
われわれは「死」という自然からも隔離されてしまっている。虚妄の上にのっかった砂上の文明の詳細をこういう本は暴く。分断された「自然」をとらえ、あらたにつなぐ。
ぼくは今日も隠された自然を求めたい。
この本の出版社は南方新社という鹿児島の小さな会社。ここは地域に根ざした民俗学や自然史、写真集などディープな本を多数出版している。こういう出版社を応援したいと思う。
2009.07.24
その矛で盾をついてみよ

昔から中国の故事「矛盾」のエピソードが気になる。なぜ商人はそこで矛を突かなかったのか。突いてみて初めて見えてくる世界というのがある。突かなきゃだめだ、と独りごちる。
矛盾が矛盾せずに同居しているのが、この世界ではなかろうか。アインシュタインが物理学で「光は粒子でもあり、波でもある」という言う時、この世界を過不足なく説明しているのではないか。私はあなたでもあり、樹でもあると言ってみたい。
ふと思ったのが日本には「盾」という文化がない。刀を両手で握るためだろうか。これは特異なことなのかもしれない。鎧や兜はあるが、盾はない。なぜか。調べてみる価値あり。
2009.07.23
深き呼吸に、夏の始まり

朝、玄関を出ると涼風が吹いて気持ちが良かった。気分までさわやかになる。このまま、どこまでも歩いても疲れないのではないのかと思うほど、気持ちよかった。こんな気候では苦い表情はできない。自然と深く息をしている。
このさわやかさというのは「自足」するということ。他になにも要らないということ。生きることは欲にまみれることだが、本当に必要なものは少ない。われわれは常に追い立てられ、刺激され続け、情報に興奮させられている。いつも自足していることができたら、いつもさわやかだろう。
ホッと息を抜き、肩の力を抜き、深く息をする。世界はのびのびとしている。しかし、あたりを見回せばそんなことをウリにした商品ばかりが増えてしまっている。この宿痾。
2009.07.22
いま、ここ。そして誰もいなくなった後の皆既日食

朝、起きたら大雨でああ、これで今日の皆既日食は見れないなと無念に思った。
が、日食の時間になると一転して雲間から太陽が覗き、1時間以上その満ち欠けを楽しめた。
直接見ると危険なので、水たまりに映るそれをじっと見ていた。なにかただならない時間が流れていることだけははっきり感じた。大事な時間。蝉も鳴くのをやめていた。気温はグッと下がった。薄ぼんやり暗くなった。
日食のピークが過ぎると周囲の人たちは、何事もなかったかのように去っていき「日常」に戻っていっていた。ピークが過ぎて、誰も見られなくなった日食をこそ自分はじっと見ていてその濃密さに一人興奮していた。「人間」が見なくても、日食は進むという事実が重要。その時も、蝉は鳴くのを止め、気温は下がる。
ここ大分では部分日食だった。映像で南西諸島の皆既日食を見ると、本当に夜というか夕暮れになっていて、これは凄い体験だろうなと羨ましく思った。子供がその闇にびびって泣いていた。その反応の正しさに感心した。皆既日食を『古事記』の天の岩戸開きを重ねるのも的はずれではあるまい。