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atami

東京に住んでいた頃は、美術館や博物館がこれでもかというほどあったので、よく行っていた。
熱海に近い湯河原というところに木村美術館という個人がやっているこじんまりとした美術館があるのだが、僕はここで「本物」の日本刀を見て、やっぱり本物を見ないと目は養われないとつくづく思ったことがあった。(冬で暖房が効いてなくて、足がしびれるくらい寒かった)
ここには名匠正宗や国光といった相模の日本刀が平気で並べられているのだが、特に正宗のそれは背筋が凍りつくほどの迫力があった。人を斬る道具でもあるせいか、とにかく妖しいのだ。それでいて工芸としての一級の価値があり、頭がくらくらする。これは鑿(のみ)とかの日本の刃物系全般に言えることだけど、硬 いけど柔らかいとか、軽やかだけど重いとか、強いけど弱いとか、対概念が平気で同居する深さがある。(刃物系だけじゃなく、日本の思考本質にすべてあるのかもしれないが。)
日本刀を見ると、そこに「精神」や「魂」といったものが宿り、あるいは神に奉献される神聖な浄化された代物であるというのも納得できる。単なる「物」を超えてしまっている恐ろしさ。長く対峙していたら確実に頭がおかしくなりそうだ。
日本刀は少し離れて、頭を上下させて見るとその刃の冴えっぷり、映えっぷりが良くわかる。鉄を「鍛える」という感じも納得するし、時代小説でよくある「刀が月光に青白く光った」という青白さもよくわかる。上野の国立博物館の童子切安綱とか名物と呼ばれる超一級のものが見たい。宮内庁も天下に誇る名刀を保管 しているが、名刀のほとんどは戦後GHQによって奪われ海外流出してしまっているという。。悔しいかぎりだ。
ちなみに刀剣は「一振(ふり)」、「二振(ふり)」とカウントする。ちなみにちなみにラケットも一振(ふり)とカウントする。
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sanbonmatsu

1 注目に価することだが、なにも起こらない第一章
大西洋上に低気圧があった。それは東方に移動して、ロシア上空に停滞する高気圧に向かっていたが、これを北方に避ける傾向をまだ示してはいなかった。等温線と等夏温線はなすべきことを果たしていた。気温は、年間平均気温とも、最寒の月と最暖の月の気温とも、そしてまた非周期的な月の気温の変動とも、規定どおりの関係を保っていた。日の出と日の入り、月の出と月の入り、月、金星、土星環の位相、ならびに他の重要な現象も、天文学年表中の予想と符合していた。大気中の水蒸気は最高度の張力をもち、大気の湿度は低かった。以上の事実をかなりよく一言で要約するとすれば、いくらか古風な言い回しにはなるけれども-----それは、一九一三年八月のある晴れた日のことだった。
『特性のない男?』ムジール(加藤二郎訳)

こんなとんでもなく人をナメた話が延々と続く、この小説を愛す。訳す方も訳す方である。
話はそれるが、小説はやはり縦書きで読みたい。
まめ

フィリピンに長期滞在している友人が乗る予定だった船。なぜかチケットの手違いからそれに乗ることができなかったが、その船はその後沈没したという。乗客はほとんど死亡したそうだ。
人間の生き死には、常に紙(チケット)一重。
生き死にだけでなく、なにか少しタイミングが違えば、その後の歩みが大きく変わる。
正しいか正しくないかも、しばらく経ってみないと分からないし、正しいことばかりも選べない。でも振り返ると、そのタイミングはほとんど完璧であることに気付く。

太平洋戦争についての本を読むと、そのへん人間の宿命が浮き彫りになった話によく出会う。
どうしても乗りたかった船でまわりから村八分にあって乗れなかったが、それが後に撃沈されたとか。身を潜めていたかった洞窟から追い出されて、戻ってみたら壊滅していたとか。
気温が暑くなると、どうしても自分はあの戦争について考えてしまう。今の時期は沖縄について考えたい。

蒔いた豆がいっせいに芽吹く。早かった。葉っぱがかわいい。
野花

自分の庭には茄子とか苺とか豆とか植えているけれど、
雑草から生える野花が一番美しい。
野花はなんの世話もしていないけれど、勝手に群生していき
勝手に花開いている。文字通り、大地に根付いている。
茎の太さ強さ、生え方など「方法」が根本的に茄子や苺なんかと違う。
茄子なんかは上へ上へ垂直に大きく自身を成長させようとするが(この時点でつっかえ棒がないと折れる)、野花は這松のように姿勢を低くし、上に伸びるよりも広く自身の領土を水平に拡大しようとしている。エネルギーやリスクなどのコストを考えても野花の方がスマートだ。
(花辞典で調べたら、どうやらリシマキア・ヌンムラリアではないか。どうでもいいが、花言葉は清純)
2009.06.26
ooita no yuhi

夕日や満月を見ると、完璧な円について考えてしまう。
フリーハンドできれいな円形を書くのは案外難しい。
昔のグラフィックデザイナーや漫画家は若い頃、幾度も練習したことだろう。
手塚治虫は円を描けなくなって引退を決意したとも聞く。
しかし完璧な円はどこにあるのだろうか。
満月のアウトラインを見て、自身のイマージュを補正することはできるのだろうか。
東京の地下鉄のロゴマークを見ると、デザインの教科書を思い出していた。
こういった記号は約物と呼ばれ、」とか・とか`とか”とか~とか/とか)とか>とか
いまは絵文字の主役になっているが、ぼくはこの約物が書体以上に偏執的に好きなのだ。

マイケル死去。繰り返されるVを見ると、改めてその黒人特有の歌唱力とダンスの腰や背中のキレが尋常でないことに気付く。彼はプロのダンサーではなかったけれど、プロのバックダンサーよりも「表現」としてのダンスに到達していた。
人には時代をつくる人と時代にのっかる人の2種類のタイプがいるけれど、前者は少数でたいがいハッピーとは言えない死を迎える。
彼のダンスを見ると、独創という言葉の定義を更新させられる。なんなんだあの踊りは。

外では暴走族がぶっ飛ばして、けたたましい騒音をがなっていた。なんかマイケルと関係があったらおもしろい。人の欲動の暴発のきっかけはなにであるかは、わからない。
wajima no yuuhi

最近の晴れた日にはよく夕日が輝いている。
夕日は目に痛くないものだから、ついつい見惚れる。
夕日は寂しいのだけど、不安にさせるそれではなくて、和みも含んでいる。
甘美といった方がいいのか。永遠と名付けたい衝動にかられる。

日本海の夕日は、九州や関東で見るそれとは違っていた。
能登半島を旅した時、曽々木海岸で見た夕日は忘れられない。
スケールが違うというとそれまでだが、地球がひとつの惑星であることが
実感できるし、太古の人間も同じように肩を並べて見ていたのだろうかとも
考えてしまう。「夕焼けこやけ」の歌はここでは似合わない。
もっと大きなものが、ここにはあった。

水平線にかかっていくと、それに合わせるように波の音が静かになっていって、涙がでそうになる。
海鳥たちの鳴き声も、遠くに聞こえるようになる。なにかも遠近が遠くなる。
横にいた友人でさえ、遠くに感じる。
砂浜に体育座りをして、口さえ半開きになりそうなほどの光景だった。
それは“うつくしい”というカテゴリーではなかったし、いつの間に波に足がつかっていても気付かない、何かなのだった。
田と

昨日は恵みの大雨。
夜は蛙たちがいっせいに鳴いた。人間は境界をつくるのが好き。
地球と宇宙。日本と朝鮮。あんたんところと、うち。
大雨が降ると、田と田の境界線が消滅するのが分かる。
蛙たちがピョンピョコ田から田へと移動するからだ。
雨で水びたしになれば、内も外も、こっちの田もあっちの田もなくなる。

禅や瞑想で覚醒にいたった人の話を読むと、きまって自分とか他者とか自然とかとの
境界線が消滅するということを語る。
自然と自分とが境目なく一体であることに開眼することが悟りなのかもしれない。
わたしはこれが自分で、と決めつけすぎているのかもしれない。
詩的な意味ではなく、宙空を舞う蝶を見て、あれも自分だと思ってもいいのだ。

確かに神経症や自意識過剰の状態は、自己と世界に線を引きまくり、分断し、両者ともが縮小してしまって疲れ切っている状態かもしれない。まったく自分と関係のない会話を自分のことを言っていると思い込むのも、世界と自己が強迫的に遊びなくなってしまっている証左であろう。
た

夜は蛙や虫たちが一斉に鳴いていて、とても心地よい。
窓を開けてその声を聴いている。いったい幾層もの響きが重なっているのだろうか。
空き地や田、畑が点在し、虫のいどことなっている。ある一定のリズムで鳴くそれらに、
自分もふとんに横たわって、意識を同期させると暑さも忘れる。京都の友人の家は、地の底から沸きあがってくるような凄まじいシンフォニーだったが、こっちは虫たちとの距離感がちょうどいいのかもしれない。

ここら一体は新興住宅地ではあるが、昔は田畑しかなかったところで、
そこらへんにまだ生態系が残っている。
田んぼはただ米を収穫するところではなくて、千の虫や鳥たちが住む住居の機能を果たしていて、田んぼの消滅は彼らへの抹殺を意味する。その責任は誰も負わない。
風景もただだと思っている。
田園風景の中を走る電車。乗客はその風景に癒されるけど、JRは特にこの風景への対価は払わない。
小さくても近くの田んぼが消えたら悲しむ文化を。
omoikumosan

清々しいいつもの朝を期待して玄関から出ると、うわっと湿った空気が全身を包み込んだ。
家の中より外の方が暑いことに、虚をつかれた。
これが日本の夏だなあという感慨にひたる。膝裏が湿ってくるのにはたえがたい。風呂に入れない病人は足を濡れたタオルで拭いてあげるとスーと快適な顔をするという話しを思い出す。
鉛色の雲が強風で激しく一列に流れている。龍の腹の下を眺めているように、雲が長かった。
バケツをひっくり返したかのような大雨を期待するも、パラパラ雨のみ。
ただただ蒸し暑い一日で、布団もおおいに湿気ているのであった。
こんな日に一番蛍は乱舞する。
蛍のゆったりとした明滅を見ると、この律動と宇宙の律動は同期しているのだと、根拠もなく直観する。この律動を思い出して今日は寝よう。

ある人に、自己主張より描写することの方が大事なのではと指摘され得心。
このブログには描写が足りないことに気付かされた。
2009.06.21 陽極まる夏至
futami

今日は夏至とのこと。太陽の力が1年でもっとも強いとされている。
以前訪れた伊勢の二見ではこの時期岩間のセンターに太陽が昇る。
冬至の日は伊勢神宮境内の宇治橋のセンターを太陽が昇る。
昨年の12/23の記事で冬至について書いたが、あの新生から成人を迎えた。

今日は夏至だというのにあいにくの曇り空。東京は雨らしい。
なんだか10時間以上眠っていた。
今は19時過ぎても外は明るく、これから段々日が短くなると考えると寂しい感。
昔、友人が「なんで、日が短くなっていくんだよぉ!!」と怒ってたのを思い出す。