2009.05.31
暗闇の思想

京都を訪れていて感心することが多々あるが、ひとつに闇の領域がきちんと闇として保存されているというか守られている。
町屋の入り口が狭く、奥に通じる通路はうっすらと暗く打ち水がしてあったり、神社も鬱蒼たる鎮守の森で薄暗い。古い家は照明は最小限度でこれもまた薄暗い。
近代は暗さを駆逐してきた時代ともいえる。東京で闇を見つけるのは難しい。明々とあることが文明の繁栄の証であるし、なによりも防犯に寄与するところが大きいのだろうが、逆に災害でこの明るさが失われれば、たがが外れて無法になるということか。
人格でも「明るい」ことが良きこととされるが、暗い人間は排除されなければならないのか。
子供が押入や土間などの暗闇から生じるイマジネーションは計り知れないが、現代住居にはそのようなポイントはない。
夜の山中を歩いた時、自分の手のひらも見えないほどの闇に包まれ正直怖ったが、これこそが本物の夜なんだと思った。必要な体験だとも思った。
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2009.05.30
永遠!

京都の河井寛次郎記念館に昨年、訪れた時のこと。
平日に行ったためか客はまばらで、2階を自分ひとり独占状態でラッキーだった。
この記念館は京都の町中にありながら、主人の不在を裏付けるがごとく静寂が支配していて一日中いても飽きない。2階の間は特にオブジェのすべてが息を潜めているようで、扇風機の回転音だけがリズミカルに漂い、ネコがあくびをし、思わず「永遠!」と呟いてしまった。
京都にはこのような喧噪の近くにありながら永遠を感じてしまうようなポイントが各所にあり、ここで生まれ育った友人を心底羨ましく思うのだった。
2009.05.29
誰かが考える。私に向かって

もう10年近く読み続けているお気に入りのブログがいくつかある。自分の置かれている状況がどのように変わろうとも読み続けているブログで、もはや自分の精神の一部だと言ってもいい。
人生譚でもなんでもなく、一人の人間の思考を追ったものがほとんどだが、どれだけそのブログに勇気づけられたか計り知れない。
彼らは本を出版しているが、その著書を読むのとブログを読むのとは全く違う体験で、ブログによる言葉の方がより耳に近く聞こえるというか、ささやきのようなものに近い。
余談だが、そのブログの書き手(専門分野も世代も名声も違う)が同時期に同じ外国へ旅したり、全く同じようなことを考えていたりすることがあって、それがさらに自分ともシンクロする場合もあって面白い。
脳の中で考えたことは世界の出来事として刻まれるというのは真実なのだ。自分も誰かの精神を支えられるようなブログを書きたいと思う。
2009.05.27
常に真芯に

サッカーとは何だという問いに答えるなら、サッカーとはトラップなのではないかと
つくづく思う。
南米などの選手のトラップはボールが足に吸い付くような柔らかさ正確さがある。幼い頃、裸足でボールを蹴っていたため即、どんな状況でも真芯を捉える能力に長けているそうだ。
小学校の頃のサッカー部では一日中トラップの練習をしていたが、その基本を極めることが一流につながるのだった。
2009.05.26
ソレを手放せるか

年齢のせいもあるのか、認識を転回させるためには何かを新しく得るよりも、持っているものを捨てるというか手放すことが重要だという確信にいたる。
たとえば精神的に追い詰められた人間がある時、ふと覚醒というか悟りに似た解放に至る事例が多く報告されているが、それは自分が一番重要だと思っていたある特定の観念やら信条、経験、思いといったものが全く重要でないことに、重要でないどころかゴミのように不要なものであることに気付く瞬間に訪れている啓示である。
釈迦の悟りは苦行という修行の無意味さに気付いたというか、修行が無意味だというその気付きに至るまでの過程が「修行」だったという手放しにある。
だが一番重要だと信じているものを手放すのは、とても勇気がいるというか命懸けの飛躍なのだ。
2009.05.25
正しいから危険なのだ

幸福の科学が政治団体を結社したらしい(以前大川隆法氏は宗教と政治ははっきり別だと言っていたような気がするが)。宗教と政治がいっしょになることの危険性は以前にも書いたが、これは宗教が「正しい」が故に危険なのである。戦中の日蓮宗、宮澤賢治、石原完爾、田中智学などの限界はここにあり、日本人はこの歴史から学ぶべきである。重要な認識はこういったものだ。
「世の中を少しでも住み良くしてくれるのは、自分は間違っているかもしれないと考えることのできる知性であって、私は正しいことを論証できる知性ではない」内田樹
2009.05.24
ここにあるもの

家の小道を一つ隔てた向こうに住宅街としては割と広めな畑が広がっていて、視野を開放させてくれる。ここの畑を管理するおっちゃんは明るい時間帯はほぼずっと畑にいる。畑というのは普通の会社員にとっての会社であったり、現場であったりするのだろうか。当然そこにいることで様々なことを覚えていき、実務能力を身につけていく。それが単なるルーティーンになってしまえばそれまでだけど。
すぐれた農業家はよーくその育てている野菜や周りの雑草というものを見ている。この見る、観察するという営みこそ農業の仕事ではないのかと思う。すぐれた農業家は見ることによって自然(自分より大きい)と対話する。私の尊敬する農業家のすべては最終的には自然をコントロールすることを放棄し、自然の流れを後押しするという役回りに徹することで一致している。放棄すること。
前の畑で農作業しているおっちゃんを窓越しに見ているのが好きだ。畑でも米づくりでも農作業している人を見ているとなぜだか幸せな気分になる。コンバインなどの機械を使って近代作業をしているの見るのは嫌だが。そこには「自然」の時間に人間が軌を一にしていることの幸福があるのではなかろうか。
今日、自分も砂漠のような庭に茄子を植えてみた。貧困すぎる土なので、どうなるかわからないがまずはやってみる。土いじりをやっているとさまざまな啓示がやってくる。過去や未来、現在がくるくる回転し、今を肯定しようとするヒントが湧いてくる。作家の保坂和志氏が「僕にはネコがいるから大丈夫」と言う態度に等しい。草が風になびき、虫が泳ぐように中空を反転し、土くれが形を変えていく。そこに自分も含めて太陽があたる。これ以上でも以下でもないが、これ以上なにも求めることもない。
2009.05.22
高熱の効用

新型インフルエンザでてんやわんやの日本。
パニック体質というか、目に見えないものに非常に弱い。
騒がないことで発生する責任のリスクの方が怖いのか。
誰か、はっきりと「問題なし」と言えないのか。
話は少し逸れるが、高熱が出ると苦しいもので、どうしてもすぐ解熱剤などを服用して熱を下げようとするが、薬で熱を叩いてしまうのはよくないのではないかという説を私は信じている。
熱や風邪といったものは、それが起こることに体の必然がある。
体調のバランスをあえていったん崩すことで、正しく修正しようとする働き。野口整体などは風邪は経過するものとして、薬などで手早く治すことの安易さに警鐘を鳴らしている。
高熱というものも、ガン細胞を殺す役割があるのではないかとも言われる。
そういえば予備校時代、東洋医学を信奉する中国語ベラベラの漢文教師が「僕は風邪をひいても薬は飲まないんです」と言って、ゲホゲホ咳をしながら授業をし、生徒に風邪をうつしまくっていたのを思い出した。
2009.05.21
なんで○○みたいなものが、この世に存在してしまったのだろうか

自分の関心の系は広い。哲学、宗教、映画、農林業、身体、経済、文学、デザイン、環境、、、。
でもこういうカテゴリーは後付けであまり意味がない。
すべては今、考えている世界の通念を覆す、考え方、方法というものにつながっている。
僕は10代の頃からできるだけ、世界の通念に従うまいとして行動してきたつもり(そうとしか生きられなかったとも言える)。それはしんどいが、嘘はなかったし、間違いではなかったが、多くの人に迷惑もかけた。
棋士の佐藤康光が将棋を知れば知るほどその深淵に驚愕してしまうことを、
「なんで将棋みたいなものがこの世に存在してしまったのだろうか」という表現で語った瞬間。
あるいは武術家の甲野善紀が『剣の思想』でこう語る時。
「勝つことの意味を変え、敵手を説得する「太刀(かた)」の価値を創造し、下克上を超える晴れやかな生の肯定をもたらしたということです。私が稽古する刀法は、このような一人の人物を明確にその起源をもっています」
世界のツボを知りたい。ギリギリのところでなんとか自分を肯定し、世界のツボを見開く。
その言葉は、どこに書かれているのだろうか。
どこから聞こえてくるのだろうか。
確かドゥルーズが「前方への逃走」と言っていたっけ。
1mすら先は見えないけど、前方にしか世界はひろがっていぬ。
2009.05.20
開

■やっとこさ、自宅にネットが開通する。今まで流浪状態だったので、ブログもあらましな所があったが、キチンと面白くしたいと考える。ブログはやはり毎日綴ってなんぼのところがあるので、更新も日々していきたい。
■講談社現代新書からの平川克美『経済成長という病』。
いま一番知りたい事が書かれている。
「しかし、その前提にあるのは経済成長への信憑であることは、ほとんど誰も注意をはらおうとしてこなかった。何故成長が必要なのか、経済成長は永遠に継続され得るのかなどとは誰も深くは考えなかった。」