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yuu

新型インフルエンザが世界を振り回しているのを見ると、不謹慎だがウィルスや菌の極小世界の人間に対する圧倒的優位性を感じてしまう。人間は生態系の中で、あるいはこの地球上の中で一番優位に立っていると思われるかもしれないが、ウィルスや菌の生態を調べていくと、人間がこの地球上ではちっぽけな端っこの存在であることがわかる。火山の噴火口や砂漠、氷河などで生きる極限環境微生物と呼ばれるもの。好熱菌などは系統樹によると全生物の祖先ではないかと言われている。
これらを自然界から引っ張り出して、ビジネスとして利用しようとする動きが既に世界的に活発になっている。思い上がってはいけない。われわれ人間の身体(人生)は彼らを運ぶ単なる箱かもしれないのだ。
2009.05.18 占う
sugi

不安はできることなら避けたいと願われる。不安のよってきたるところは未来の不確実性である。占いがここから生まれる。占いというものを調べていてひどく幻滅したのは、占星術にしろ血液型にしろ手相にしろ、原典というもの(あるいは判例みたいなもの)があって、これに直接アクセスするのが占者で、その原典をどう解釈するかは占者に全面的に因っているということである。占者は無色透明な単なる媒介ではなくて、原典の内容をいかようにでも「解釈」できる立場にある。それゆえ占星術者も多く存在してしまう。
だから占いを信じることの馬鹿馬鹿しさは二重にあって、未来を定まったものと確定しようとする馬鹿馬鹿しさと占者の解釈に依存する馬鹿馬鹿しさである。
それでも占いの魅力というものはある。血液型のような大雑把なものではなく、画数や占星など精緻を極めたものなどは「学」と呼んでもいいような体系があり、おもしろい。
2009.05.16 不安のもつ力
asa

人類は常に「不安」に苛まれてきただろう。
食料やら気候やら、外敵やら…。
いま、人類のさまざまな遺産は、この不安が
生み出した所産であるにちがいないとふと思った。
sabaku

安室奈美恵が熱唱している動画を見ていたら、なぜだかふと「ああ、時代というものは若い者たちが作っていかんといかんなあ」と思った。日本の政治家や企業家を見ていても、彼らの年齢は60や70の者たち。実質、現社会あるいは未来の社会を形作るのに強い力を持っている人たち。でも彼らが「よかれ」と思って形作るものは、われわれ若い世代にとっては、ゴミみたいなものかもしれない。
黒沢清氏が映画「アカルイミライ」のインタビューで若者の描く明るい未来と老人の描くそれは一致しないということを語っていたことを思い出した。
かつての学生闘争(純然たるボランティア活動!)とは、そこの駆け引きでもあったのではないか。
若い世代は生まれたときには何もかも完成された世界が既に用意されてしまっていて、自ら世界を一から構築するなど思考の片隅にもないが、、でもわれわれの未来は奪われていることに気付かないと、、。
写真は新居の庭である。こんな砂漠を開墾しようと考えている。
2009.05.13 ひびき
shinma

なぜ日本は言霊幸う国なのか。
金太郎飴のように、どの土地を切っても、
その断面から立ち上がってくるものがある。
それは砂漠地帯などの乾いた神なき地、
あるいは神とタイマンで向き合わなければならない風土
とは全く異質な湿潤なもの。
湿り気を帯びた苔の匂いに、神聖なものが
確かに感じられる。
とんでもなく無尽蔵な国だとつくづく思い知らされる。
yasai

昨日、テレビで叶姉妹の姉が「わたしは料理する時、あらかじめレシピなど何も決めないんです。そもそもわたしは決めること決め付けることが大嫌いなんです」と喋っていたその言葉に解放されるものを感じた。
通俗的に言い換えれば臨機応変ということだが、その都度ゲームの規則を創っていく尊い思考法だ。
京都の友人が「京都ではエスカレーターの右に並ぶか左に並ぶかは予め決まってなくて、その都度変わるんだよ。京都の人はそういうのを予め決めるのが嫌なんだよ」と言っていたのを思い出した。
ゲームというものは、その決められたルールに従うことよりも、ゲームそのものの枠組みを創造することの方が圧倒的に面白く、重要で、難しい。例えば、小島信夫などは「小説」そのもののルールを変えようとしたのだし、映画でも音楽でもお笑いでも、サラリーマンでもそれができる偉人はいる。Googleなどはわれわれの生活のルールそのものを変えたのではないか。戦争や収奪しあう経済そのものを無効化するゲームの枠組みを生み出したい。
2009.05.11 ことば
niji

「排除されていない者は、包括されている」ジンメル
kyoboku

店頭でSONYが有機ELテレビというのを売り出しているのを見た。
その映像は恐ろしいくらい鮮明で、肌の肌理や野菜のみずみずしさの質感など
食欲があきらかにかきたてられた。
その映像広告もこれみよがしに、コーヒーの映像など流して嗅覚までをも刺激して、
茂木健一郎が「脳が喜ぶ」などとコピーを寄せている。

われわれの再現への欲求とはなんだろうか?
それはどこか二度と起こらないが一度は起こった奇跡をもう一度待ち望んでいる欲求なのだろうか?
過去はモノクロではなく、「懐かしい現在」として再現される。
目の前に色褪せもせず60年前の初恋の人が立ったり、失った愛犬が飛び跳ねていたりするのを
再び見ることが幸せとはとても思えないが。
2009.05.02 社会の外側へ
枯死

学校というものは、つくづく「社会」から遠くにあればあるほど存在価値があるものではないかと思う。
幼稚園がいい小学校に入るためであってはならないし、高校がいい大学に入るためであってはならないし、大学がいい会社に入るためであってはならないと思う。
何者でもない無価値の尊さが許される社会。文学部や哲学科がそのうち大学から消える日も遠くないかもしれない。まったく社会的ではない学問の存在。
太田光が言うように、イラクで拉致された青年を「自己責任」という都合のいい言葉で殺してしまった日本(小泉)は、死んだ青年の馬鹿げた行動を社会の中に包含することができなかった。
「馬鹿げた」ことも内包できず、社会はどんどん小さくなっていく。
gosinboku

ご神木のある風景。
伐っていい木と伐ってはいけない木。
神の降りる依り代。媒介。メディア。
素人目?にも伐ってはいけない木は分かる。
迫力が違いすぎる。
何かが宿っている、ただならぬ気配。

他の人にもわかるように、その前に鳥居をおいた。