2009.03.30
出発のとき

家の近くにあるえび坂。
飛騨高山はどの町にも似ていない。
半年離れたら、自分はこの町がとても好きなことに気付いた。
空気や水の澄み切り。肌が切れるような寒さ。
純正そのものと化した町。
まるで霧の中のような夢幻の町に住んでいたようだ。
ここで知り合った仲間たちも各地に散っていく。
この土地に残る者はいない。
ありがとう飛騨高山。
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2009.03.29
夜の果てへの旅

高山の裏路地にある昭和のにおい残る呑み屋街で、明日大阪へ帰る友人とラーメンをすする。
ずっとここに座り込んでいたい程、居心地のいいラーメン屋であった。
店舗の狭さ、主人、客数、客の感じ、味、匂い、どれも過剰も欠落もなく身の程にあった
心地のいいものであった。
薄い壁を通して、隣店の語らいの声が漏れ聞こえてくる。3月のこの時期は別れの酒が多いのだろうか。そんなしみったれた情緒もここでは許されそうだ。
高山の夜の途方もない寒さが、限りなく懐かしかった。
2009.03.28
形而上のいざない
2009.03.26
独立時計師の時間
スーツや鞄、革靴などの服飾は安価で売られているものと、一流の職人が仕立ててつくられたものとでは、物に宿るオーラが違う。
なかでも自分にとって時計というものは、非常に気になるアイテムで、人がどのような時計をしているのかも気になるし、買うことはないけれど、店頭に並べられているいい時計はずっと眺めていても飽きない。
時計はどこかの社名にもなっているように、「精巧」の代名詞でもあるだろう。そしてもっとも身近なもの。われわれの時間=人生を端的に指し示すもの。ブランド志向はないが、安い時計を身につけるのはためらわれるこの感覚。
スイスには独立時計師という、会社組織に依存せずに時計を創り上げている職人がいるらしい。そのなかでも帝王とも呼ばれるフィリップ・デュフォー氏が昨日テレビに出ていた。
岐阜の高山を彷彿とさせる雪深い渓谷で静かに静かに彼は仕事をしていた。
ブラウン管を通しても彼の仕上げた時計の完全性はピリピリと伝わり、息を飲むような美しさだった。
組織では納期の関係で妥協ばかりしていたが、独立してからは納得がいくまで自分の仕事と向き合える、と語っていた。この贅沢さが羨ましい。
日本におけるものづくりは、中国の安価な労働力におされて贅沢に時間をかけることはできない。木工でも昔は箱物ひとつ作れば半年くらいはゆっくりできたという。
農作業をしていても思うのだが、今は時間が金の価値に変わってしまい、農作業をしながらじっくりと自然と対話するなんてことは無理で、厳しく時間と人件費がリンクし、製品コストの値段に跳ね返る。
そんなことは当たり前だと言ってしまえばそれまでだが、時間とお金が等価値である世界に、希望などあるわけがないと思う。
なかでも自分にとって時計というものは、非常に気になるアイテムで、人がどのような時計をしているのかも気になるし、買うことはないけれど、店頭に並べられているいい時計はずっと眺めていても飽きない。
時計はどこかの社名にもなっているように、「精巧」の代名詞でもあるだろう。そしてもっとも身近なもの。われわれの時間=人生を端的に指し示すもの。ブランド志向はないが、安い時計を身につけるのはためらわれるこの感覚。
スイスには独立時計師という、会社組織に依存せずに時計を創り上げている職人がいるらしい。そのなかでも帝王とも呼ばれるフィリップ・デュフォー氏が昨日テレビに出ていた。
岐阜の高山を彷彿とさせる雪深い渓谷で静かに静かに彼は仕事をしていた。
ブラウン管を通しても彼の仕上げた時計の完全性はピリピリと伝わり、息を飲むような美しさだった。
組織では納期の関係で妥協ばかりしていたが、独立してからは納得がいくまで自分の仕事と向き合える、と語っていた。この贅沢さが羨ましい。
日本におけるものづくりは、中国の安価な労働力におされて贅沢に時間をかけることはできない。木工でも昔は箱物ひとつ作れば半年くらいはゆっくりできたという。
農作業をしていても思うのだが、今は時間が金の価値に変わってしまい、農作業をしながらじっくりと自然と対話するなんてことは無理で、厳しく時間と人件費がリンクし、製品コストの値段に跳ね返る。
そんなことは当たり前だと言ってしまえばそれまでだが、時間とお金が等価値である世界に、希望などあるわけがないと思う。
2009.03.23
映画監督 北野武
東京について考えていると、つられて何故か映画のことを考えた。
おそらく東京では1,000本以上の映画を見たと思うが、
個人的な映画体験としては、北野武の誰からも鑑みられることのなかった、
誰からも期待されることなく撮られた初期の作品「その男、凶暴につき」や「3-4×10月」「ソナチネ」は最上のものではなかろうか。
それはのちに身近な師の存在となる黒沢清や青山真治のいづれの傑作群でもとうてい届かない、立つべき定位の違う、孤絶した作品だと、今さらながらに確信した。
映画について、われわれはなにを知っているのだろうか?と武の初期の作品は問いかけさせる。
最近の彼の作品は、すでに知っていることだけをただ取り集めているだけで、
とても受け入れがたく、表現者として大罪だと思う。
おそらく東京では1,000本以上の映画を見たと思うが、
個人的な映画体験としては、北野武の誰からも鑑みられることのなかった、
誰からも期待されることなく撮られた初期の作品「その男、凶暴につき」や「3-4×10月」「ソナチネ」は最上のものではなかろうか。
それはのちに身近な師の存在となる黒沢清や青山真治のいづれの傑作群でもとうてい届かない、立つべき定位の違う、孤絶した作品だと、今さらながらに確信した。
映画について、われわれはなにを知っているのだろうか?と武の初期の作品は問いかけさせる。
最近の彼の作品は、すでに知っていることだけをただ取り集めているだけで、
とても受け入れがたく、表現者として大罪だと思う。
2009.03.22
遅れてきた低炭素革命

日本はアメリカの追随で、やっと日本版グリーンニューディールを立ち上げた。
どうして政治家も官僚も、アメリカの後追いでしか仕事をしないのだろうか。
追随なら、せめてヨーロッパの後追いであってほしいと思うのだが、、、。
環境分野での真にクリエイティブな仕事が待ち望まれている。
この世界同時不況は、われわれの文明の足元を見直す絶好のチャンスで、
環境分野で日本が世界のリーダーになる、お手本となる絶好のチャンスでもある。
ブログ「最後の水たまり」は引越しました。
昔の「最後の水たまり」はこちら。
↓↓↓
http://d.hatena.ne.jp/sc_zuk4c/
2009.03.18
老兵
ボクサー辰吉丈一郎の特番が組まれていた。
日本で試合ができない辰吉はタイで試合をしていた。
相手選手に比べると筋肉に艶がなく、動きにもキレはなく、殴られっぱなしで、
痛々しさそのものだった。
スポーツ選手は、江川や中田のように絶頂期を過ぎた瞬間に辞めてしまう系と、
カズや中山、清原のようにどうしようもなくなるまで続ける系がある。
価値観の違いといってしまえばそれまでだが、辰吉の試合を見ると
燃え尽きるとか、納得するとかいったものでは捉えられない、業のようなものを感じてしまう。
勝つとか負けるとかいったスポーツの前提は、ここでは小さい。
まるでサラリーマンのようにリングにあがり続ける辰吉。
習慣とも言っていた。
ボクシングのリングに、今までのボクサーとは違う世界観を持ち込んだのかもしれない。
タイの相手選手が猟奇的にリンチのように、辰吉を殴り続けていたのが印象的だった。
2009.03.15
クリエイティブって?
簡単にクリエイティブという言葉が使われているような気がする。
本当の創造性とは、社会的なルールやレールの上にはないが、それを
目にした時に、興奮と喜び、もっと言えば解放感を与える新しさをもっている。
それは世界の名もなきカオスと直接ふれあい、語り合う感性がないと到達しえない場所にあるものだろう。
たとえば、ブラジルやアフリカのサッカーを見る時の興奮はここにある。創造性に満ち溢れるとは、決められた約束事よりも、その瞬間瞬間のアドリブ、世界との会話を重視する姿勢である。それは練習や努力といったもの以前に、サッカーのはらわたを直裁に見たものの根源的に沸き出るものである。なにしろ、そちら側の方が豊穣でおもしろいのだ。羽生善治の将棋にもそれを感じる。
クリスチアーノ・ロナウドが転倒して大地にしりもちをついた際に、その姿勢のまま鮮やかにヒールで味方にパスを出したのを見た時に、日本人が同じルールで競うサッカーとは別の次元のはるかに豊かなサッカーを見た気がした。
2009.03.13
エントロピー理論から見る循環とは
とんぼや鳥は重力に抗ってまでわざわざ宙を舞う。
鮭は川の流れに抗ってわざわざ上流に昇っていく。なぜか。
山に降った雨は、その土中にある栄養分を重力の法則に沿って、下へ下へ流していく。
田や畑、海はその栄養分をあずかって、豊かになる。
でも、普通に考えると栄養分を流し続ける山は、そのうちスカスカになってしまうのではないか。。
ならない。なぜか。
それは海に流れた栄養分を、鳥がわざわざ飛来することによって海から山へ運ぶから。
鮭が遡上し、熊に食べられることで、海のものがまた山へ還っていくから。
ざっくり「循環」について語るとこんな感じだが、調べれば調べるほど、
生命の精妙さというか、神の見えざる手に驚かざるを得ない。
鮭が食べる山の栄養分も、重力の法則によって海の深層にまで沈殿したものが、
再び浮上する海流を知っているからである。
2009.03.06
思わぬ収穫
ある有名な方の講演のテープ起こしの作業をしているのだが、録音の状態がヒドくて、
たとえば向こうを向いたりした際の声がほとんど集音されていないなど聴き取り難くイライラの作業となっている。
しかし、それでも諦めずに推測して文章をつないだり、不要だと思った箇所はバッサリと削ったりなんかしているうちに、、講演全体の相貌が徐々に明らかになってきて、これはとんでもなく素晴らしい講演ではないかと、思わず知的興奮に包まれた。
それは地球環境の循環をエントロピーの理論によって語り尽くす講演で、これを聴いていると軽はずみに理論的な裏づけなしで「地球にやさしい」だとか「循環型社会を目指そう」などと企業がイメージアップのために言うべきではないと痛感する。
詳細については、また後日記述したい。