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大分から東京を結ぶ寝台特急「富士」が、3月13日をもって終わりをむかえる。
親父の代からつづく列車で、自分も何度も乗ってさまざまな思い出があるので、
運行を続けてほしいと思うが、時代の流れには逆らえぬか。
昭和を思い起こさせるものが、消えてゆく。

おそらく大分から東京へ向かう手段としては一番安く、快適だろう。
社内販売がないため、朝方、朝食のうどんをかっ食らうため、5分だけ停まる駅のホームのうどん屋に一斉に皆が駆け込む光景は今でも懐かしい。
今日も大分駅で鉄道ファンや個人的思い入れのある人たちが、富士の来るホームで撮影をしたり、
切符の予約をするために徹夜をしている。
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作家の村上春樹氏が先日イスラエルにてエルサレム賞を受賞した。イスラエルがガザで非戦闘員を100人以上も殺害した後での受賞で、さまざまな人たちから授賞式には行くな、おまえの作品の不買運動を起こすぞなど言われたなかで、村上氏は授賞式に出席し、スピーチした。
私は村上春樹氏の作品のあの甘ったるい喪失感に、彼の世界認識の弱さをどうしても読みとってしまい完全に信をおいていないのだが、『ねじまき鳥クロニクル』だけは、じぶんにとって精神の背骨のひとつになった作品で、忘れがたい読書体験になっている。

彼のスピーチの言葉。
「遠く離れているより、ここに来ることを選びました。自分自身を見つめないことより、見つめることを選びました。皆さんに何も話さないより、話すことを選んだのです。」
私も話すことの方を選びたい。

2009.2.26


おととい帰るときに橋を渡っていたら、下のグラウンドで暗い中、照明をたいて母校の中学生がサッカーをしていた。
自分も子どもの頃、サッカーをしていた時、確かに目の前の人間が誰か分からなくなるまで、ボールを蹴っていたことを思い出した。

こんな時は「誰?」という言葉が頻繁に行き交っていた。顔をかなり近づけないと、相手が誰か分からなかった。意外に上級生だったりして、恐縮したりしたのも思い出す。
大人になればなるほど、暗闇と遠ざかっていることに気づく。


井脇ノブ子とかいうピンクのスーツを着た政治家が、不明朗会計処理で記者会見を行っていた。なんという醜い会見をするのだろうか。驚愕して言葉も出ない。この外の社会とのズレっぷり。彼女には派遣切りも、大不況も、戦争も、環境問題もまったく関係ない。ただひたすらに醜い。腐臭すら漂っている。

だが、この醜さはわれわれの醜さでもある。われわれが選んだのだ。自身への鏡として、彼女の醜さをじっと眺めよう。

2009.02.23 閑話休題
この前、中年のおやじ3人と家で呑んでいて、その中の一人がやたら下ネタずきで、真面目に政治の話なんかしている中で、話題を何かとエロい方にもっていこうとしていた。おれって、SM好きなんだよねえとか。SMは文学的だよねえとか。

宴会場になったおやじの家は3階建てで、眠くなったおれは3階に布団をしいて寝ようとしたが、濃いコーヒーを飲んだせいか、なかなか寝付けず、1階から聞こえてくるおやじ二人の会話を聞こえてくるとはなしに聞いていた。

そのうち会話が聞こえなくなり、寝たのかなと思った時に、ムチを弾く音が聞こえてきてマジでビビった。おそらく寝床を作るためにあたりをガシャと片付ける音が響いて、ムチのしなるような音に聞こえたのだろうが、ムチの音ではないのかという疑念がなかなか去らずに、しばらく眠れなかった。

この前、会議で知り合った市議候補の人と電車で一緒に帰っていて

いろんな世間話をしている時に、彼がこんな話をした。

「僕は50才を越えているけど、今でも弟と仲がよくてしょっちゅう連絡をとりあっているんだ。この絆の深さはなんだろうとある時、考えていたら、子供の頃に二人がある決定的な共通の体験をしたことによるんじゃないのかと思いあたったわけ。それは信じないだろうけど、二人でUFOを見たんだ。夕方、太陽が沈みかけている時間帯、僕は丘の上にいて目の前をゆっくり通り過ぎるUFOを見た。窓もはっきり見えた。そして弟は学校帰りで自転車で丘を駆け上がってくる途中だった。お互い別の場所で同じUFOを見たことになる。弟は死にそうな顔をして丘を自転車で全力疾走で駆け上がってきた。その表情で彼もUFOを見たことはわかった。まだUFOという名前もなかった頃だよ。後知恵であれはアダムスキー型だということがわかったけど」


彼のキャラクターから僕を騙そうとか、面白がらせようとして作り話をするタイプの人間ではないことがわかるので、おそらく彼のUFO体験は本当なんだと思う。そうすると、私の前提とする「世界」のイメージがあっさりと崩壊し、別の深淵が顔をのぞかせてくる。

「科学」もまたひとつの壮大な仮説で、この世界は無限の仮説でなんとか世界の顔をしているのだろう。

市議選のため、候補者が町中を車で回り、ウグイス嬢が名前を連呼しているおなじみの光景。車から白い手袋をつけて手を振っている。

一体、誰に向けて手を振っているのだろう。
日本の民主主義の薄っぺらさが白日のもとにさらされる光景。
お騒がせいたしております、とがなりながらも住居の敷地にズカズカ入ってくる選挙カー。

彼らの就職活動にこちらがつき合っている。
でも中には、真に訴えたいことを語っている本気な候補者もいる。
でも彼の声は小さすぎて、届かないだろう。


2009.02.13 エンデの警鐘
osaru de gozru

このような世界の行き詰まりに直面し考えていくと、どうしても経済の問題につきあたり、マルクスなんかの本を拾い読みしたりしているのだが、中でも坂本龍一と河邑厚徳が書いた『エンデの警鐘』がかなり面白い。

「一言でいえば“自然と人間のための社会/経済システム”です。“これからの経済学は、社会の生産と消費の関連をこれまでのように商品形態または市場の枠内でのみとらえることをやめ、あらためて自然・生態系と関連させて、したがって広義の物質代謝の過程としてとらえなおさねばならなくなってきた。”」


本屋の文庫本コーナーに行くと、哲学者ジル・ドゥルーズの本が文庫化され並べられているのに戸惑った。

蔵書ではぶ厚い『千のプラトー』を所蔵するのみだが、この物理的な厚みと重みが彼の思想自身と相俟っていたのに、

文庫化されるとなんとも味気ない印象を受けてしまう。

もちろん印刷された活字は変わりないのだけど。

生前、『死霊』の作者埴谷雄高は「自分の作品は文庫化するな」みたいなことを言っていた記憶があるが、彼の死後あっさりと文庫化されてしまった。。

文庫化されて得るもの、失うもの。精神と重量は呼応している。


企業の業績悪化で、派遣社員が削られ、スポーツチームが削られ、文化事業が削られ、、、でその企業が何を残すかというプライオリティがわかってくる。

この機会に虚飾をすべてはぎ取って欲しいと思う。

辺見庸氏がテレビで今の世の中は様々なことがコーティングされている社会だ、というようなことを語っていた。年越し派遣村のテレビ放送の裏に、大食い競争の番組が流れる世界。

コーティングの表層をよく見て、その奥にあるえげつない絶望を見破らなければならない。