2009.01.30
経済成長マイナス時代の正しさ
新聞でも大きくマイナス成長が告げられている。
マイナスが正しいのだと言いたい。
マイナスななかで、堂々と幸福に生きていける方法を確立しなければ、
持続可能な社会など成立しえないのは自明である。
過剰に明るすぎる文明を虚妄だと断じ、質素でも虚飾なく生きる道を求めたい。
マイナスが正しいのだと言いたい。
マイナスななかで、堂々と幸福に生きていける方法を確立しなければ、
持続可能な社会など成立しえないのは自明である。
過剰に明るすぎる文明を虚妄だと断じ、質素でも虚飾なく生きる道を求めたい。
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2009.01.22
やり直せる国
国家にせよ企業にせよ個人にせよ、失敗や誤りというものは必ずある。むしろ失敗だらけと言ってもいいだろう。そのような中で、やり直しができたり誤った地点にまで戻れるということは重要で、アメリカのオバマ新大統領の就任演説を聴いていると、アメリカという国はとんでもない失敗をしでかすけれど、それを反省、修正しやり直すこともできる国なんだなあ、と羨ましく思った。
このガラリと変化していく感は、今の日本にもほしい。
このガラリと変化していく感は、今の日本にもほしい。
2009.01.19
物質と 記憶

歩きながら自分が12年間通った小・中・高校を見ていると、そこかしこのオブジェクトから記憶が喚起され、その情報の厚みに立っていられないほど、圧倒される。
樹木、遊具、玄関、自転車置き場、手すり、窓、グラウンド、砂場、大きな石、小池、小路、定位置にできる水たまり、自販機、制服、ジャージ、ゴールポスト…体育館を見るだけで床のベッタリとした質感や、マットのにおいなどを思い起こす。
これらはすべて外部環境と私の記憶装置に保存され、私の視線に触れるとその都度解凍されるもので、そのオブジェクトが消滅すれば、私の記憶もこの地上から消滅する。私の脳(内部)にあるというよりも、外部にあるという実感。保坂和志氏が「家に記憶はあるか」と問う時、このようなことを考えているのであろうか。
「感傷」という気分を瓦解させるほど、豊穣な記憶が物質に保存、刻まれている。
2009.01.13
電気・原発・暗闇
電気というものはどこまで必要なのだろうか。
現代を「明るさの文化」と評し、その虚妄性を語った作家がいるが、
どこまで昔の生活に戻れるかは別として、石油の枯渇が明らかになっている今、
考えなければならない。
僕自身は暗闇が好きで、エコ・キャンドルナイトなど闇を楽しむイベントはもっと多彩に考えられていいと思う。
原発はそこで働く、労災認定されずに闇に葬られていく「被爆労働者」なしには成り立たないという恐ろしい産業で、
もっとこういうことはキチンと報道されて、電気がもたらす「明るさ」というものを考えないとまずいだろう。
本当にわれわれは人間として自立して生きているのか。すでに与えられている当たり前ともなった「明るさ」を糸口に真摯に向き合う必要がある。累々たる犠牲者の上に成り立つ明るさの文明が、持続可能か。
現代を「明るさの文化」と評し、その虚妄性を語った作家がいるが、
どこまで昔の生活に戻れるかは別として、石油の枯渇が明らかになっている今、
考えなければならない。
僕自身は暗闇が好きで、エコ・キャンドルナイトなど闇を楽しむイベントはもっと多彩に考えられていいと思う。
原発はそこで働く、労災認定されずに闇に葬られていく「被爆労働者」なしには成り立たないという恐ろしい産業で、
もっとこういうことはキチンと報道されて、電気がもたらす「明るさ」というものを考えないとまずいだろう。
本当にわれわれは人間として自立して生きているのか。すでに与えられている当たり前ともなった「明るさ」を糸口に真摯に向き合う必要がある。累々たる犠牲者の上に成り立つ明るさの文明が、持続可能か。
2009.01.12
大阪、鶴橋

用事があって大阪へ出かけた。
余った時間を利用してコリアンタウン鶴橋に行ってきた。以前、大阪の友人と「アド街ック天国」の鶴橋特集を見て以来、行きたいと思っていた。
日本でいくつかのコリアンタウンを見てきたが、鶴橋が一番ディープだった。ソウルを旅して以来、その文化に魅せられた自分にとって、鶴橋は生きている朝鮮文化を存分に味わえるエリアだった。めまいを覚えるほどの一番の魅惑は、ガード下の迷路のような商店街であり、迷うことの快感を教えてくれる。ソウルへ旅した時も、あえて積極的に迷って歩いていた記憶がある。次は肉の臓の陳列の圧倒的な多彩さで、本源的な「生きる」エネルギーを忘れかけている日本人の目を醒ましてくれる。
そして焼肉は断トツにうまかった。お腹いっぱい食べても、もたれないのが韓国料理のバランスの良さだ。
単一民族ではない日本の多様なエネルギーの噴出を、きちんと理解する必要がある。
在日問題などはまた別の機会で記述したい。
2009.01.09
眠れなかった夜

自分にとって決定的な人物と出会って、興奮してしまい眠れない夜を送った。出会いによる知的な刺激によって眠れない夜を迎えるなど、なんと幸福なことだろうか。あと死ぬまでに何回、このような夜を送ることができるのだろうか。地位や名誉や財産など、このような感動体験を前にすると、いかにもむなしい。
僕は昨日、聖者の中の聖者ともいうべき人間と出会うことができた。僕にとっての聖者とは、人格高潔というよりも現実にもまれながらもかろうじて自己と世界をぎりぎりのところで肯定して生きている人間のことでその意味で言えば、この地上に生きるほとんどの人間が聖者なのかもしれないが、聖者の中の聖者はそれにプラスして「自分に嘘をつかない(もしくはつけない)」人間のことで、好むと好まざるとに関わらず嘘をついて生きていかざるを得ない現今の社会にあって、この生き方は現実との摩擦係数は高く、激しい闘争を求められる。
今の自分にとっては、聖者も聖者の中の聖者もともに眩しい存在だが、50歳を過ぎてもなお聖者の中の聖者であり続けている人物との出会いは、あまりに決定的で震えるほど感動した。しかもそんな人物が二人もいたのだった!
世界を信じる力がまたフツフツと湧いてきた。
2009.01.08
縁あるものは結ばれる
この世界は出会ってナンボのところがあって、人との出会いはもちろんだが、本との出会いや映画との出会いなど、その出会いがあるかなしかで、180度その後の人生が変わってしまうようなことがあって、しかもそのような出会いは「たまたま」的な偶然によって導かれることがほとんどだ。
例えば自分の場合、本屋の書棚からその本だけが飛び出していたり、間違って録画したビデオに決定的な出会いをもたらす情報が録画されていたり、電車のつり革広告のある文字だけが自分の眼に飛び込んできたりといったもので、出会いの縁というものの妙なる不可思議さにシビれ、「これだから人生やめられない」と深く得心する。
また今日もおそらく自分の今後の人生を決定的に左右するであろうという人との出会いがあって、それも偶然置かれていたチラシに書かれてある文字が何故だか眼にとまったという極めて危うい偶発性によってもたらされたものであり、こういった出会いのある人生に感謝、感謝なのであった。
例えば自分の場合、本屋の書棚からその本だけが飛び出していたり、間違って録画したビデオに決定的な出会いをもたらす情報が録画されていたり、電車のつり革広告のある文字だけが自分の眼に飛び込んできたりといったもので、出会いの縁というものの妙なる不可思議さにシビれ、「これだから人生やめられない」と深く得心する。
また今日もおそらく自分の今後の人生を決定的に左右するであろうという人との出会いがあって、それも偶然置かれていたチラシに書かれてある文字が何故だか眼にとまったという極めて危うい偶発性によってもたらされたものであり、こういった出会いのある人生に感謝、感謝なのであった。
2009.01.07
書物の発酵
発酵したものがたまらなく好きである。
酒、味噌、納豆、チーズ、キムチ、塩辛…フラットではない味の奥行き。
これらが食べ物としてこの世にあってよかったと、つくづく思う。
読書も好きである。好きというより、自分にとっては「生きる」ということと同じ意味である。精神にとっての食事で、これが欠けると死んでしまう。本さえあれば生きていけると言ってみたい。
自分の読書のスタイルは「積読(つんどく)」というやつで、本を買ってすぐに読み始めることももちろんあるが、多くは買って本棚にしばらく並べられることの方が多い。そしてその並べられた本は、ある時突然、読まれることとなる。機が熟した。発酵したと言ってもいい。「食べごろ」がおとずれたのである。それはただその時の絶対のタイミングなのだ。それを本たちはしずかに待っている。
酒、味噌、納豆、チーズ、キムチ、塩辛…フラットではない味の奥行き。
これらが食べ物としてこの世にあってよかったと、つくづく思う。
読書も好きである。好きというより、自分にとっては「生きる」ということと同じ意味である。精神にとっての食事で、これが欠けると死んでしまう。本さえあれば生きていけると言ってみたい。
自分の読書のスタイルは「積読(つんどく)」というやつで、本を買ってすぐに読み始めることももちろんあるが、多くは買って本棚にしばらく並べられることの方が多い。そしてその並べられた本は、ある時突然、読まれることとなる。機が熟した。発酵したと言ってもいい。「食べごろ」がおとずれたのである。それはただその時の絶対のタイミングなのだ。それを本たちはしずかに待っている。
2009.01.06
吉本隆明
吉本隆明
NHKの桂離宮特集の裏で、吉本隆明の講演番組も放送されていて、どちらを見るかさんざん迷った結果、
ビデオに録画して見ることにした。
僕が哲学を学び始めていた時には「吉本隆明」という名前は既に過去の人みたいになっていて、その思想と改めて真正面から向き合うという機会はなかった。時代が混迷すればするほど、その時代をドライブする思想がなにより重要だと思うが、吉本隆明の講演を聴いていて、驚くほどアクチュアルに「今」と響くものと「古いなあ」というものが混在していて面白かった。何よりその半生を語るがごときの熱意と、舞踏家のような身振りにはズシリとくるものあり。
案内役の糸井氏が言うように、道に迷ったら迷った元のところまで戻ればいいのであるが、その「元」がなくなってしまっているのが現在。どう自らを解き放つのか。芸術は無用ではなく、確実に我々を生きさせてくれる何かであるなど、元気が出る言葉が多かった。
またマルクスについて熱く語る吉本を見ると、マルクスが無性に読みたくなった。こんなでたらめな経済世界に生きる今こそ、思想信条関係なく、マルクスと素で向き合う時代がきているのかもしれない。
2009.01.05
泣きたくなるほど美しい
以前京都を訪れた際、絶対外せないと思って友人に無理矢理、桂離宮に連れて行ってもらったものの、係員に入場を制止された。何でも事前申請がいるとのこと…。「ガーン」という擬音が頭に響いたのであった。
昨晩、NHKが桂離宮を特集していて思わず見入る。
智仁親王が当時の徳川幕府への隆盛に危機感を感じ、王朝文化を毅然として誇示するために桂離宮を造営したという精神的背景があったとは知らなかった。
こういった文化的偉業は一人の人間の思いから成し遂げられるという好例だ。
テレビで眺めているだけでもその比類なき美しさがひしひしと伝わってくる。
信じがたい。POPな要素さえある、この軽み。いきさ。遊。日本そのもの。「事前申請」がまたプレミアム感を高揚させるのが悔しい。
桂離宮は死ぬまでに訪れたい。
昨晩、NHKが桂離宮を特集していて思わず見入る。
智仁親王が当時の徳川幕府への隆盛に危機感を感じ、王朝文化を毅然として誇示するために桂離宮を造営したという精神的背景があったとは知らなかった。
こういった文化的偉業は一人の人間の思いから成し遂げられるという好例だ。
テレビで眺めているだけでもその比類なき美しさがひしひしと伝わってくる。
信じがたい。POPな要素さえある、この軽み。いきさ。遊。日本そのもの。「事前申請」がまたプレミアム感を高揚させるのが悔しい。
桂離宮は死ぬまでに訪れたい。