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大分在住の写真家船尾修氏の写真集「カミサマホトケサマ」を見る。

この写真集は大分国東半島に根付く神仏習合の文化を大文字ではなく、小文字から丁寧に拾い上げていった作品で、ガイドブックでは取りこぼしてしまう世界を開示してくれる。ただ惜しむらくは写真集のサイズが小さいことで、せめてA3くらいで見たかった。

今回この写真集を見てあらためて思ったのが、フィルムの質感の唯一無二の素晴らしさで、ここ最近デジカメに慣れてしまったこともあって、フィルムの素晴らしさを忘れていた。

デジカメはやはり「情報」以上のものにはなり得ず、フィルムは「生」や「死」「永遠」といったものを、はっきりと刻印する。



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2008.12.29 有効な方法
いまNHK教育テレビが地球温暖化防止の取り組みとして、放送時間の短縮を行っている。

放送休止時のグレーの画面が多弁的でそれ自体がメッセージを含んでいて面白い。

数時間だけネットが使えなかったり、携帯が使えなかったり、車が使えなかったりしたら、いろんなことが見えてくるんだろう。

なにもかもが過剰な現代では、なにかをすることよりもなにかをしないことの方がはるかに重要なのだ。


sousasen


togakushi


日本各地を旅するときに、その土地に昔からある巨木・巨樹を見るのが好きでリストにしたら百は越えるのではなかろうかというくらい巨木を見てきた。

その中の8割以上は杉の巨木で、それも神社の境内に生えているものが多い。

杉は学名をクリプトメリア・ジャポニカというように日本国産の樹種で「直木」という漢字が当てられたこともあって、真っ直ぐに育つ。それはまるで柱のようでもあり、神が降臨する依代としてふさわしいのかもしれない。(ちなみに日本の神さまの数え方は一柱、二柱…である)

写真は長野県の戸隠神社に生えている御神木の大杉。戸隠は半端なく巨大な杉がいたる所に生えていて、自分が小人にでもなったかのようだった。



sandou


人間が人生のうちにできるのは、あれもこれもではなく、あれかこれかである。

yawarakana



ドリフターズのコントの再放送をテレビで見ていると、その背景にある時代の幸福さをホクホクと感じる。

コントのギャグのほとんどがいわゆる「お約束」なのに驚いた。「お約束」が「お約束」にまでなっていない時代の幸福さ。それに比すと、最近のお笑いは神経症的で賞味期限が極端に短い。

この二十年で日本はとてつもなく大きなものを失ったのがドリフを見るゾッとするほどよくわかる。

来年はどこに着地するのか。世界は自分の手に委ねられているという気概が重要だ。



sunsun


「汝自身のなかの英雄を放棄することなかれ」


hiokasyou02


先日記したクスノキのある学校は日岡小学校だった。知人に聞いたところそんなこのクスノキも校舎の増築のため刈られる危機にあったというから、人間の愚考には言葉を失ってしまうが、これらの愚考愚行を食い止める言葉をもたなければならない。

高山でも駅のそばにあった大きな桜の木がホテルかマンションの建設のためにあっさりと刈られたのには驚いた。その地にあるものを極力残していくのも「デザイン」の仕事ではないか。

古い木を刈ることにためらいや踏みとどまりをもつ感性はもはや教育によって後天的に習得されるしかないのだろうか。

木を切る前に祝詞をあげたり、斧を立てて神さまにお伺いをこう感性はもうない。

しかし、このクスノキは見れば見るほどホレボレする巨木だ。

今日も通りかかったら、校庭で児童たちが遊んでいてその明るい叫声をクスノキの木肌が吸い込んでいるように思えた。



2008.12.23 新生
sunsun*


太陽の運行と同期すること。

おとといあたりが冬至でいわゆる昼の時間が一番短い。陰極まるとも太陽の死とも言う。太陽の死?古神道やインディオなどのアニミズムを基本とする考え方では、太陽は時事刻々と変容生成するものとして捉えられ、例えば朝の太陽と夕方の太陽は全く別物で朝の太陽のみ肯定的に捉えられている。一年を通しても太陽は生まれ、成長し、死をむかえ、そしてまた再び誕生する。(食べ物は旬のものをいただくべきという考え方はこの太陽の変容と密接に関わっている。ハウス栽培で季節を無視した野菜を採るのは自然から離れていく行為で、旬なものを一番美味しく感じるのは身体が自然の一部だから)

そして太陽は冬至を過ぎた今日に新しく生まれ変わるという。正月に「おめでとうございます」と声をかけ合うのはこの新しい太陽を祝しているのだろうか。また今日が天皇誕生日なのは偶然なのだろうか。

太陽の運行に合わせて生きることが人間にとっての「自然」であるが、日の出日の入りすら見ることが難しい中、どう太陽と関係していけばいいのだろうか。

まあ、とりあえず今日の太陽の再誕を祝うとしよう。



hiokasyou01


歩いていたら、巨木のある小学校の校庭を見つけた。おそらく樹齢百年は超えるクスノキだろう。樹高は写真を見ても分かるように、3階の校舎を優に超えている。こうやって大きな木とともに6年間を過ごせるのは、なんと素晴らしいことか。うらやましい限りである。子供は木を見て大きくなり、木は子供の成長を無言で見守っている。

大人の自分でもその大きさに圧倒されるくらいだから、子供にとっては怪物のような存在かもしれない。あるときはその威容が怖かったり、あるときはその大きさの包容力に安心したり、またあるときはその作る木陰が心地いい友達のようで…様々な感情、感覚をこの木に織り込むことができる。

これもまた理想的な「木育」のひとつのあり方だ。ここを卒業して都会へ出た人たちが帰ってきても変わらずこのクスノキの巨木は厳然と立っているだろうし、おそらく老いて死んだ後も立っている。誰もが自分や環境が、あるいは考え方や習慣が変わっていく生々流転の人生の中で「変わらない」ものが厳然と存在するものがあることを確認するのは非常に重要である。木育は人生のある一時期のものではなく、生涯にわたってのもので、特に僕としては大人のための木育を提唱したい。



sunsun**



クラシックでは、もうブルックナーしか聴かなくなって久しい。

ブルックナーの交響楽は他のどの交響楽にも似ていない。音楽の「前提」が違う。

ブルックナーの交響楽を聴いていると、いったい誰のためにブルックナーはこの曲を作ったのだろうかとふと疑問に思うことがある。

当たり前かも知れないが、音楽はそれを聴いてくれる人間がいることを前提として作られている。ミスチルもベートーベンもそうだ。人間という聴衆が前提としてある。

だがブルックナーの交響楽を聴いていると、自分をスルーしていく感覚があって、響きの広がり方が自分で完結しないというか、その響きにふさわしいのは、例えて言うなら乳の出をよくするために牛舎にクラシック音楽をかけて牛に聴かせるイメージで、森とか海とか月夜に響き聴かすのが相応しく、それもなにかの天変地異で人類や動物が死滅した後に蓄音機が残っていて、それがループしているイメージ。

そんな広がりのある音楽は他に雅楽しか思い浮かばない。

写真は今日の朝焼け。朝焼けなんて十年ぶりくらいに見たのではなかろうか。そう、こんな朝焼けにもブルックナーの音楽を聴かせたい。