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2008.12.20 メッセージ
sun*sun


京都の街中には大小様々な寺院が点在している。

だいたいそんな寺院の入口にはたいてい掲示板があって、標語や警句みたいなメッセージが掲げられていることが多い。

そんな中、以前に見て感心したメッセージを今でも覚えている。

「毎日の些末でくだらない仕事の中から信用が生まれる」

仕事で本当にやりたいことは一割あるかないかだよな、みたいなことを考えていた時期だったので、深く刺さるものがあった。



連日連夜、業績悪化による解雇や明日の寝床にさえ困る人たちの報道が続いている。

かつて9.11のテロの時、メディアは繰り返しワールドトレードセンターに突っ込むジャンボ機の映像を流し続け、恐怖を動機とする行動の正当性を保証する時代を形成することに成功し、ブッシュの報復と果てしないテロの連鎖の時代を導いた。それは今も続いている世界の有り様だ。

今の大不況をめぐる報道も不安の上に不安を重ねるだけ重ね、人々を不安に根付かせ萎縮させるだけだろう。そこから導き出される結論に何が期待できるのだろうか。

いま大きく報道すべきニュースは、杵築市に匿名で百万円寄付した人の話や研修施設を宿泊地として提供した企業の話だ。売名行為でもいい。ピンチはやはり最大のチャンスだ。農業や林業、福祉などに就業者を増やせるいい機会かもしれない。

いま一番必要なのは、「世の中は生きるに値する」という社会に対する期待感、信頼感だ。

トヨタのCMがひたすらに虚しかった。


2008.12.18 満天の星空-2
ふと思ったのは、空気が今より綺麗で街明かりもなかった昔の人間は、天気が良くて空気の澄んだ夜は毎日この夜空を見ていたんだろうな、ということで、となると同じ「夜」と言っても現代人と昔の人がイメージする「夜」は全く別物で、当然世界観も全く違うものに依拠していることになるだろう。変な言い方だが、昔は今より「夜」はより「夜」で、「昼」はより「昼」だったのだ。

あの日以来、満天の星空を目にしていないが、人口灯に照らされたあんまり星の見えない夜空を見ると、その背後に輝く満天の星たちを想像している。星たちに見られているという視線を獲得したのかもしれない。

人間も自然の一部に過ぎないという環境教育をするなら、満天の星空を見せればいいと思う。


2008.12.17 満天の星空-1
以前に岐阜と長野の県境に程近い平湯という峠で満天の星空を見た。

ワゴンに乗っていて、ふと窓の外を見てみると、夜空がたいへんなことになっていて、思わずドライバーに無理を言って止めてもらった。

車から降りて夜空を見たら、そこには満天の星空が広がっていた。

正直な感想としては、キレイとかウツクシイとか言うよりも、「怖い」というのがまず先立った感情だった。星空を長く肉眼で眺めた方には分かると思うが、時間が経つにつれ闇に目が慣れ、見える星の数が増えてくる。真に驚愕したのはここからで、通常「地」となる闇の空間と「図」となる星の夜空に占める比率は当然「地」となる闇の空間が圧倒的だと思うが、満天の星空ではこの「地」と「図」の比率が五分五分かむしろ「図」の星の方が大きいかもしれない。月明かりという言葉があるが、星自身の星明かりが夜空を明るくしている感じ。

とにかく大げさではなく、宇宙全体の呼吸というか律動を感じる。自分もこの宇宙の一部なんだという確かな実感。自分の小ささを実感せざるを得ない「大いなるもの」「圧倒的なもの」の存在を感じること。



2008.12.16 ARIGATOU
kyoto,bus stop


関西方面に出かけると、「ありがとう」という言葉をよく耳にするような気がする。特にバスを降りる時に、運転手に言う場面を見かけることが多い。京都などでは全員声をかけていると言ってもいいだろう。もちろん運転手も「ありがとうございました」と返答する。

お金を払っているから、運転してくれて当たり前と言ってしまえば、それまで。確かにお互い、なんの借りもないが、「ありがとう」という言葉は単なるおカネの関係を越える、相手の技術や労働に対する敬意が含まれている。「派遣切り」を例に挙げるまでもなく、今の日本の社会に欠けているのは、労働に対する根本的な敬意で、合理化の追求は構わないにしても敬意や感謝までをも同時に踏み潰してしまったのはまずすぎるだろう。そのあたりに日本人の芯のなさを見てしまう。

「ありがとう」の掛け合いは、そんな現状に抗す。第一言う方も、言われる方もとても気持ちがいい。




織田裕二のモノマネをする山本高広に織田裕二がクレームを出しているとのこと。

山本高広を初めて見た時に、あっと思ったのが、似ているから面白いという旧来のモノマネではなく、その微妙な似ていなさに笑えたことだった。体型といい、顔といい、声といい、どこかホンモノと重なる部分もあり、全然違う部分もあり、でもそれがどこらへんなのか明確にできないうちに笑ってしまう。笑わされてしまう。

織田裕二がクレームを出したのは正しいかもしれない。

僕にはもうオリジナルの織田裕二のイメージが曖昧としたものになってしまっている。山本高広はモノマネというもの、モノマネをするということの本質を変えたのだ。

山本高広のモノマネにとってオリジナルの織田裕二はもはや不要なのだ。それがオリジナルとの共存共栄を可能にした過去のモノマネとは一線を画している。

改めて言う。クレームを出した織田裕二は正しい。

織田裕二を見ると逆に山本の道化に見えてしまうから恐ろしい。


2008.12.14 引用4
「世界ぜんたいのいきづまりに立ち会えるとは思わなかった。(中略)これまでとはまるで異なる、とてつもなく別なシステムを世界は必要としている(中略)いきづまった古い時代が終わり、やがて新しい時代が来る、などとは考えないほうがいい。新しい、と言ってしまうと、これまでの延長戦上の出来事だ。それに、来るのではなく、作るのだ。」

片岡義男「いきづまりに立ち会う」より

ちなみにこの文章が書かれたのは5年以上も前である。


sukashite

最近いいニュースを全く聞かない。外需が落ち込むと派遣労働者が一斉に切られたり、内定が取り消されりと今回の米国発の一連の騒動で世界経済がいかに脆い砂上の上に成り立っているのかというのがよく分かった。砂上というよりも幻妄に近い。

確かなものの上に立ちたいと思う。経済という生態系と自然の生態系。そのどちらも人間にとっての生態系であるが、人間が生まれ出、そして還っていくのは後者である。われわれの「生」を見直すいい機会である。

自分の足で立ち、経済を確立し、自然とともにあること。それがどのような形態なのか、真にクリエイティブなアイデアが求められている。


souko

労働は本来、満ち足りたそれ自体で楽しいものではないだろうか。労働は金銭以上のものを与えてくれる。藤本敏夫氏が、日本のレジャー産業の発達は日本人が労働の楽しさを喪失してしまったからというような主旨のことを言っていたが、農作業なんかすると、そこに労働の素朴な形態を見出してしまうので、昨今の労働のあり方を考えざるを得ない。たとえば宝くじが当たって、働かなくて済むようになったら、それが本当に幸せか。

農家に休日はないが、そもそも休日という発想自体がおかしいのかもしれない。ある宮大工の棟梁が「仕事をしている時が一番リラックスしている」と言った言葉が忘れられない。


2008.12.11 引用3
「そのリンゴは、信じられないくらい美味しかったのだ。

あまりにも美味しいものを食べると、人は涙を流すのだということをその時初めて知った。一口頬張った瞬間に、大袈裟ではなく、自分の全身の細胞が喜んでいるような感じがした。

『これだ!これだ!これだ!』

細胞という細胞が、そう叫んでいるような気がした。(中略)この世に生きる喜びの、エッセンスとでも言うべき何かが、そのリンゴには充満していた。」

『奇跡のリンゴ』石川拓治より