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2008.11.30 司馬遼太郎
友人から司馬遼太郎を勧められ『関ヶ原』を読む。

高校の頃、司馬遼のいくつかの短編は読んでいたが、国木田独歩の言うような「光に闇を見つけ、闇に光を探す」人間になってしまった今に読むと、その味わいは格別で、読み終えるのが惜しかった。

司馬遼は太平洋戦争での日本に嫌気がさし、「昔の日本人はもっとましだったにちがいない」として歴史小説を書き始めたという。で、あるからかどうか分からないが東軍に寝返った小早川氏への記述は容赦ない。人間として「醜い」ということが、どういうことかよく分かる。こんな風に後世に語り継がれたらたまらない。

その友人とも話したのだが、関ヶ原の時代でも、情報が伝達されるネットワークの網の目は十全に敷かれており、特に「噂」というもののもつ力、怖さは、家康も充分自覚的であり、家康が他の武将より抜きん出ていたのは、まさにこの点だったのではないか。

現代を「情報化社会」と呼ぶが、それは戦国の世も、卑弥呼の時代もそうだったに違いない。逆にインターネットなどの至便な技術の方が、取りこぼすものが多いのでは。


今日、大阪から憧れのダイヤモンドフェリーに乗って地元大分に帰るので、ブログ更新が滞るかもしれません。うちの実家はネットがつながっていない。。

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約10年前に見てド肝を抜かれた映画のひとつ。(もう10年になるのか…)間違いなく「新しい」映画。公開当時スピルバーグの「プライベート・ライアン」とともに「統覚のない映画」として日本の映画批評界を動揺させた。これほど「あらすじ」を語ることがナンセンスな映画もないだろう。

今見てみるとどうだろう、と思って見てみたら、何の違和感なく「普通」に見れた。この違和感のなさにかえって動揺した。10年前の衝撃はなんだったのかと考えた。

考えた末、行き着いた結論。これは「You Tube」の先取ではないのか。

You Tubeにフラットに並置された幾万の投稿動画たち。主題や物語は徹底的に粉々にされてしまっているものの、投稿した者の息づかいは「確かに」ここにある感触。映画でもなく映像でもなく、「動画」としか呼びようもないもの。

「動画」としての映画。

薄い薄い世界の皮膜をひたすら横へ横へ滑っていき、けっして深度をもたない動画。結末にはただその運動の疲労感だけが残るが、それを撮り得た者の意志のみが希望の芽だ。今の世界を切り取るのにふさわしい方法のひとつだと思う。


7、8年前に沖縄に行った。主に南部の戦跡を見て回った。

平和記念公園やひめゆりの塔など定番のコースを回るもピンとこなかった。

思い切ってタクシーに乗って、喜屋武岬に向かった。

喜屋武岬の海岸線は険しい崖に縁取られており、沖縄戦下、追い詰められた沖縄県民たちの多くがこの崖から飛び降りて自らの命を絶った。

人っ子一人もいず、一見すると景勝地のような美しい海岸線。リゾートを思わせるコバルトブルーのきらめく海が、かえって悲しい。そしてこの足がすくみ、長く立つこともできない絶壁の前に立った時、自分はこの戦争を「理解した」ような気がした。足元から確かにわかった。

ここから自分に「あの戦争はなんだったのか」という強い問いが生まれたのだった。

それは残念ながら平和記念公園やひめゆりの塔では得られない「実感」だった。その違いは何か。それは前者があくまで「情報」であったのに対し、喜屋武岬は「体感」の、頭での理解を超えた、おぞましいものをおぞましいままに伝える現場であったのだ。

修学旅行生であふれかえる前者と、人っ子一人もいない喜屋武岬。

平和教育であの戦争の悲惨さを忘れるなとは言うけれど、資料や情報を見せるだけでは何も伝わらない。「悲惨」という意味の体系に収まり落ち着き、安心してしまうだけだ。喜屋武岬には「悲惨」ではおさまりきれないものがある。ここでは人は安心できない。

しかし、そういったことも見せ方次第では「情報化」へと堕してしまう。先入観なしに、「感じ」てもらえるような教育は難しい。「感じ」てもらったことは一生忘れない。「情報」はレポートを書くためだけの暗記に終わってしまう。

私はいまだに「あの戦争はなんだったのか」という問いは消えないし、これからもリフレインし続けるだろう。

岬にあった手製の看板に書かれてあった詩を掲載する。

これを読んでいたとき、もはや自分にとってこの詩は「情報」ではなくリアルな実感としてあった。

「平和への祈り」

岬 岬 喜屋武岬

男性のような 荒波の岬

戦争は 西から追われて 南に流れ

着いた所は 喜屋武岬

老いも若児も ここが最後の場所

ここが 喜屋武岬

ここが おいらの岬

2008.11.27 前人未踏とは

卓球の福原愛ちゃんが記者から「今年の目標は?」と聞かれて、即座に「目標はありません」と答えた時、ゾクッとしたものが背中を走った記憶がある。

「目標」を掲げてそれに向かって邁進せよ、とはよく言うけれど、「目標」というものに方向性を収斂させ絞り込んだ途端に、様々な可能性の枝葉が掻き取られていってしまう。卓球の世界に超人や達人といった、通常の域を超えてしまった選手がいるかどうか分からないが、福原愛の「目標はありません」の言葉には、金メダルや銀メダルといったもの以上の、「より大きなもの」へと志向する思いがあったのではないか。幼少期より跳ね返ってくる球を打ち返し続ける者だけが見える風景があるのだろう。

映画の脚本を書いていた経験から思うに、観客より前に自分を驚かせたいのだ。ここまできてしまったか、というオドロキのうちにある時、書いている「私」は消え、もはや映画の原理、世界の原理によって、書かされているという状態に近い。

もちろんそこには「目標」あるいはあらかじめ設定された結末というものはない。そんなところに収めていくなど、世界に対する冒涜であろう。

福原愛が卓球というゲームの中に、茫洋たる世界の深淵を見たとしても、考えすぎではあるまい。

bingata


京都から出雲へ用事があって出かけた時のこと。

途中、高速バスで大阪の吹田を通るのだが、そこで瞬間見えた万博跡地にある太陽の塔が忘れられない。まったく心の準備なしでバスの窓から見たせいもあるだろうが、岡本太郎が日本にいてよかったと心底思うほど、偉大な建造物だと直観した。

まだ日本に返還される前の沖縄を訪れ、民俗学的論考を自身の実感に依拠し信じがたいほどの明晰さで記述し尽くした名著『沖縄文化論』。

「私を最も感動させたものは、意外にも、まったく何の実体も持っていない-といって差し支えない、御嶽だった。御嶽-つまり神の降る聖所である。この神聖な地域は、礼拝所も建っていなければ、神体も偶像も何もない。森の中のちょっとした、何でもない空地。そこに、うっかりすると見過ごしてしまう粗末な小さい四角の切石が置いてあるだけ。その何にもないということの素晴らしさに私は驚嘆した。」(「何もないこと」の眩暈より)

「芸術は爆発だ!」の白痴的イメージの強い岡本だが、この本を読むと当代一級の知性の持ち主であったことがよく分かる。また本文に掲載されている沖縄の資料写真がゾクゾクするほど素晴らしい。

最近、沖縄の知人ができて、ふとこんな文章を書いてみたのだった。


goshintai



教祖もいず、教典もなく、教えもなく、偶像もなく、
伝道者もいないのに、数千年も前より現在の日本にあるもの。
神道というからには、それは教えではなく神の道、カムナガラなのだ。
神道は全てのベクトルが神に向かっている。神社も祭りも神様のためのもの。だから神社に行ってお願い事をするのは、筋が違っていて本来的ではない。

逆に仏教は「教え」であり人間的、人間のためにあるもの。

死体を「仏」と言ったりするように、あくまでわれわれ人間の延長線上にあるものである。
神道の根本は自然崇拝。鳥居や拝殿などは本来不要なのかもしれない。

今でも残っている。岩や巨樹、瀧、海、山がそのままご神体、信仰の対象となっている神社が。(これも正確に言うと、そういった自然のモノを媒介、依り代として神が降臨するので、岩などそのものが神というわけではないが…)

ちなみに神仏習合として有名な大分の国東半島の祭事では、その祭りのただ中に般若心経が唱えられ、神道と仏教の融合がなされているさまを見ることができる。



高度資本主義社会と呼ばれる現在にあって、われわれは一方的に消費への欲望を刺激され続けて、モノを買わされ続け、消費のための消費を繰り返し、希望さえも消費のサイクルに組み込まれ、人生を終えるのだろうか。

例えば、少々値は張るがMade in Chainaを頑なに拒否し、国産のものを購入する行為は、受け身の消費活動から少しでも離れ、国産を支持するささやかな意志表示になりはしまいか。

大手チェーン店をヘドが出るほど毛嫌いし、場末のちいさな店に通う友人を見て、ふとそう思ったのだった。

佐伯剛という編集長が発行する「風の旅人」という小さな雑誌がある。私が唯一、自宅発送にて定期購読している雑誌であるが、執筆陣の充実ぶり、書かれている内容の濃厚ぶりに加え、佐伯編集長の「志」を支持したいがゆえ、私は金欠でも定期購読している。

何かを買うことはそれを支持すること。買わないこともまた充分な意志表示だ。

2008.11.23 流せ
majiwaru tokoro


友人が京都に住んでいるため京都を訪れる機会が多い。京都を訪れるたびにその底知れぬ多様さに魅惑されていく。京都の魅力のひとつに鴨川が挙げられると思う。川の表情がゆるくて、やさしくて、かつ清浄なのが憎い。東京の多摩川や隅田川とは違って、人との距離が非常に近い。物理的にも精神的にも。箱庭の中に流れている小川のようだ。

人間三十も過ぎれば、背負いたくないものや背負わざるをおえないもの、人に言えないけど忘れることもできないものなどが蓄積されていく。鴨川の流れをずっと見ていると、そういうものを全て洗い流してくれそうだ。神社が磯の浜辺にあったりするのは、潮の絶え間ない寄せては引いていく力のうちに、物事を潮(塩)とともに洗い清め祓い落とし刷新していく自然の力動を見出したからである。写真は賀茂川と高野川が合流し、鴨川となる好きなポイントのひとつである。奥に見えるのは下鴨神社の糺の森で、それがこのポイントに鎮座するのも故ないことではないだろう。



taiya koukan


韓国映画がここまできていたとは…油断していた。正直くやしい。

活劇の呼吸を自らのものとし、カット割りやキャメラワーク、フレーム内の人物の動かし方の運動神経の確かさといい、日活時代の鈴木清順や70年代のアメリカ映画を彷彿とさせるがどれにも似ていない。その冒頭のショットからただ者ではない才走りが感じられたかと思ったら、あっという間に一分の隙もなく一息でラストまでたどりついた映画。押井守作品の盗作疑惑があるらしいがそんなレベルはとうに超えている。しかし惜しむらくはその主題の幼稚さで、盗作疑惑に巻き込まれてしまうのも、その主題の弱さ故だ。映画監督としての有り余る才能を持ち合わせながら、自身を生かすべき主題を見出していないし、ポン・ジュノ監督を活かすように韓国社会がそこまで成熟していないのかもしれない。その歯痒さの自覚が本人にあり、技術以上に主題との格闘が見られれば、故エドワード・ヤンや青山真治をも凌駕するアジアを超える世界の映画作家の仲間入りとなるだろう。

2008年の作品「Shaking Tokyo」が見てみたい。

今日は車のタイヤを冬タイヤに交換した。ボルトが錆びついていてなかなか緩まず、友人に鉄パイプを持ってきてもらい梃子の原理で無理矢理ボルトを緩めた。

2008.11.21 引用-1
tomodachi no ie


「地虫が鳴き始めていた。耳をそばだてるとかすかに聞こえる程だった。耳鳴りのようにも思えた。これから夜を通して、地虫は鳴き続ける。彼は、夜の、冷えた土のにおいを想った。」

中上健次『岬』より

中上の最良の文章は腹にくる。「腹をくくる」とかいう場合の腹だ。

地虫ということで思いだしたのだが、京都の友人宅に泊まっていた時のこと。彼の家は京都の中心部から少し外れたところにあるせいか、田園やら畑やら小川やらが残っている奇蹟的なところで、虫も当然多くいて、秋口、夜半に目が覚めてトイレに行くと、背後の開いた窓からいろんな虫たちの大音量の鳴き声が尾てい骨あたりに一斉に迫ってきて、圧倒されていたのだった。