2015.01.02
2015
走る。寒空の下。
正月は誰も走っていない。
彼女は今も、絵を描き続けていて、それが嬉しかった。
以前よりずっとずっと自由で開放的な絵だった。
それもまた嬉しかった。
たぶん、自分は多くの影響を与えたに違いない。
わたしの言葉が誰かの中で生き続けている。
魂をつかまえて。
投壜(ブログ)でしか救われない魂もある。
たぶん、どこかでつながっているのだろう。
それが切れることはない。
ありがとう。
それはきっと救われる。
魂を救え!
幼いときは、しかしわからなかった。
この世には、独りでいることができて、
初めてできることがある。ひとは
祈ることができるのだ。
「空の下」長田弘『一日の終わりの詩集』
正月は誰も走っていない。
彼女は今も、絵を描き続けていて、それが嬉しかった。
以前よりずっとずっと自由で開放的な絵だった。
それもまた嬉しかった。
たぶん、自分は多くの影響を与えたに違いない。
わたしの言葉が誰かの中で生き続けている。
魂をつかまえて。
投壜(ブログ)でしか救われない魂もある。
たぶん、どこかでつながっているのだろう。
それが切れることはない。
ありがとう。
それはきっと救われる。
魂を救え!
幼いときは、しかしわからなかった。
この世には、独りでいることができて、
初めてできることがある。ひとは
祈ることができるのだ。
「空の下」長田弘『一日の終わりの詩集』
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2014.05.20
思い出されて、会う
エピソード記憶。
中学の頃、文化祭をAくんと盛り上げた。
熱い友情だったかもしれない。
高校までつきあいがあったが、それきりとなった。
ここ最近彼との思い出を中学時代の迷いのない情熱を
思い出した。ひらめくように。
会社に届く市報。
滅多に読まないが広報欄がなぜだか無性に恋しい感じで、
目を通すと動画、映像に関するセミナー開催の予定が書かれていた。
最近は映像に関する仕事について考えていたから、
ちょうどウッテツケ!のセミナーだった。
とはいえ、少しこのセミナーのことは忘れていた。
でも無性に気になっていて思い出され、
今日参加申し込みのファックスを送った。
セミナーのチラシをダウンロードした。
その講師、その講師の名前に見覚えがあった。
Aくんだった。
20年ぶりに来月セミナーを通して会うことになった。
その前にも個人的に会うかもしれない。
思うこと。思われること。
会うこと。すれちがうこと。
中学の頃、文化祭をAくんと盛り上げた。
熱い友情だったかもしれない。
高校までつきあいがあったが、それきりとなった。
ここ最近彼との思い出を中学時代の迷いのない情熱を
思い出した。ひらめくように。
会社に届く市報。
滅多に読まないが広報欄がなぜだか無性に恋しい感じで、
目を通すと動画、映像に関するセミナー開催の予定が書かれていた。
最近は映像に関する仕事について考えていたから、
ちょうどウッテツケ!のセミナーだった。
とはいえ、少しこのセミナーのことは忘れていた。
でも無性に気になっていて思い出され、
今日参加申し込みのファックスを送った。
セミナーのチラシをダウンロードした。
その講師、その講師の名前に見覚えがあった。
Aくんだった。
20年ぶりに来月セミナーを通して会うことになった。
その前にも個人的に会うかもしれない。
思うこと。思われること。
会うこと。すれちがうこと。
2014.05.05
Lights

拡散してほしい写真みたいだから、のっけてみた。
このブログじゃ拡散もしないが。笑
空が青い。
善も悪も、じつは、ない。
なによりも充実しているのは、その青さ、そして映える血の赤。
ただ、それだけ。
たしかに悲しい。そして痛ましい。酷いことだし、なんとかせねばと思う。
でも象は象。人は人。空は空。
相対して虚無になるでもなく、充実しきっている。
なんにもいらない。なんにもしなくていい。
今日、夜、ホームレスの人に毛布を配りに行こうか。
ホームレスの人はいない。
じつは愛は対象がない。それじたいで自足している。
施しが可能になるのは、その地点で。
振り上げられる斧はあたたかくもつめたくもない。どちらかであってほしい。
「かく熱きにもあらず、冷かにもあらず、ただ微温(ぬる)きが故に、
我なんぢを我が口より吐き出(いだ)さん」ヨハネ黙示録第三章十五節
おまえは生ぬるいんだよ、吐き気がするんだよと言っているのである。
「夜羽(ヨハネ)あなたどこに行くのです」ヨハネがすき 大島弓子
小島信夫の『殉教』をこの連休中に読めた。
映画の骨になりそうな予感。
この予感というのが創作において、暗い迷路の小さな灯火になるのだなあ。
2014.04.28
エリエリレマサバクタニ
カガワシンジ選手がW杯に出られないという嫌な夢を見る。
内容はともかく、社会の無意識を背負った夢を見た、なんともいえない感情。
ある映画祭に感想文を出して入賞をした。
入賞者には後日景品が送られるという話しだったが、全然こない。
まったくもってフザけているが、一方で笑える。
主催者の評判の悪さを聞いていたが、まあいいか。
むしろ映画のネタになる。ホン・サンス的だ。感想文もホン・サンスの映画だ。
年齢について考えた。
わたしは40手前だが童顔のせいか、わりと若い人のなかにも入っていける。
だが60くらいになるとどうだろうか。
同じ年齢の集団でしか集まれないのは退屈だ。
わたしはいつも「年下」的ポジションにいたが、
いつの間にか「年上」になっていて、そうなると皆遠慮がち語りかけてくるようになるものだ。
それが寂しい。
しかし「成熟」とは、それを受け入れることか。
成熟がよくわからない。
少なくとも団塊の世代が言うような成熟はわたしにとってどうでもいい。
むしろ彼らに未熟さを見てしまう。
三年日記を書きはじめて一年が経った。
内容はともかく、社会の無意識を背負った夢を見た、なんともいえない感情。
ある映画祭に感想文を出して入賞をした。
入賞者には後日景品が送られるという話しだったが、全然こない。
まったくもってフザけているが、一方で笑える。
主催者の評判の悪さを聞いていたが、まあいいか。
むしろ映画のネタになる。ホン・サンス的だ。感想文もホン・サンスの映画だ。
年齢について考えた。
わたしは40手前だが童顔のせいか、わりと若い人のなかにも入っていける。
だが60くらいになるとどうだろうか。
同じ年齢の集団でしか集まれないのは退屈だ。
わたしはいつも「年下」的ポジションにいたが、
いつの間にか「年上」になっていて、そうなると皆遠慮がち語りかけてくるようになるものだ。
それが寂しい。
しかし「成熟」とは、それを受け入れることか。
成熟がよくわからない。
少なくとも団塊の世代が言うような成熟はわたしにとってどうでもいい。
むしろ彼らに未熟さを見てしまう。
三年日記を書きはじめて一年が経った。
2014.04.17
排除・支配・ゆるさ・統制
日本でもかなり大きな環境団体の会員なのだが、
そこのメーリングリストでは日々様々な意見交換がなされている。
ここでの意見交換は常にポジティブで明るく、お互いを励まし合い、
希望に満ちた社会づくりへの覇気に満ちたものだ。
しかし、そこへある女性が不協和音を鳴らすように、
ある種の不平、独断的な意見を投稿したところ会員の非難を浴び、
退会まで促されるところまできた。
わたしはこの女性の根底にある甘えは問題だと思うが、
排除の方向にまで追い込まれていく状況には強い違和感を覚えた。
支配を忌避する組織のなかに支配がある。
退会の促しはポーズかもしれないし、本気かもしれない。
本気の人もいるだろうし、そうでない人もいる。暖かく見守る人もいる。
この人を救う(救うというのは傲慢だが仮に)こと、
それは本人自身の力によるしかない。
それは間違いない。
しかしこのどうしようもないような人であってさえも、
受け入れることができない組織とはなんなのであろうか。
心の問題にもふれる組織として。
この排除性がこの組織の限界だとは薄々気づいていた。
みんなイエスマンだ。
ある力。強靭な。統制への。
これはある目的を達するためには必要なものだ。
加速することが必要だ。
強制的なものがなければ、人は重い腰をあげないかもしれない。
しかし力とは、すべからく暴力のことではないのかとふと思ったのだった。
あるコミュニティ。
ここは来る者は拒まず、去る者は追わず。
コミュニティとしての最低限ルールがあるのみで、
運営はゆるい。もちろんここには主催者の頑張りがあってのことだろう。
そして営利を追求しているのでもない気楽さもあるだろうし、
なんら目標もない。組織とコミュニティは違う。
でもこの風通しのよさにいつも希望や明るい未来を感じるのは確か。
このコミュニティにも場違いな人はいるけど、
みんなある意味場違いな人たちかもしれないけど、排除はない。
排除するまでもないということか。
やがては解散する、ということが重要なのだろうか。
なにかを長く維持しようとするから、不純物を取り除こうとするのか。
その場、その場。
目標のない組織、会社を夢想した。
少しでも具体的であることを誤りとする、
韓氏意拳のことを思った。
自分が映画を撮り始める時、
そのことを留意しよう。
ゆるいコミュニティのように映画を撮りたい。
そこのメーリングリストでは日々様々な意見交換がなされている。
ここでの意見交換は常にポジティブで明るく、お互いを励まし合い、
希望に満ちた社会づくりへの覇気に満ちたものだ。
しかし、そこへある女性が不協和音を鳴らすように、
ある種の不平、独断的な意見を投稿したところ会員の非難を浴び、
退会まで促されるところまできた。
わたしはこの女性の根底にある甘えは問題だと思うが、
排除の方向にまで追い込まれていく状況には強い違和感を覚えた。
支配を忌避する組織のなかに支配がある。
退会の促しはポーズかもしれないし、本気かもしれない。
本気の人もいるだろうし、そうでない人もいる。暖かく見守る人もいる。
この人を救う(救うというのは傲慢だが仮に)こと、
それは本人自身の力によるしかない。
それは間違いない。
しかしこのどうしようもないような人であってさえも、
受け入れることができない組織とはなんなのであろうか。
心の問題にもふれる組織として。
この排除性がこの組織の限界だとは薄々気づいていた。
みんなイエスマンだ。
ある力。強靭な。統制への。
これはある目的を達するためには必要なものだ。
加速することが必要だ。
強制的なものがなければ、人は重い腰をあげないかもしれない。
しかし力とは、すべからく暴力のことではないのかとふと思ったのだった。
あるコミュニティ。
ここは来る者は拒まず、去る者は追わず。
コミュニティとしての最低限ルールがあるのみで、
運営はゆるい。もちろんここには主催者の頑張りがあってのことだろう。
そして営利を追求しているのでもない気楽さもあるだろうし、
なんら目標もない。組織とコミュニティは違う。
でもこの風通しのよさにいつも希望や明るい未来を感じるのは確か。
このコミュニティにも場違いな人はいるけど、
みんなある意味場違いな人たちかもしれないけど、排除はない。
排除するまでもないということか。
やがては解散する、ということが重要なのだろうか。
なにかを長く維持しようとするから、不純物を取り除こうとするのか。
その場、その場。
目標のない組織、会社を夢想した。
少しでも具体的であることを誤りとする、
韓氏意拳のことを思った。
自分が映画を撮り始める時、
そのことを留意しよう。
ゆるいコミュニティのように映画を撮りたい。