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2014.04.13 早朝の朧月
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タイプライター、鉛筆、万年筆、サインペン、ボールペン、
ネット文字、、、
書かれた言葉は同じだとしても、伝わりかたは全然違う。



4時起き生活に戻す。
朝はひらめきが多い。
かなしみもよろこびもニュートラルにやってくる。
昼間に何度も聴いていたブルース・スプリングスティーンの曲が脳裏にかかると、
ああブルースは人生の痛みをやわらげるんだなあと思えた。


数分しか話していない人に何度も会ってほしいと言われ、
宗教の勧誘か?とか思っていて、会って話していたら、
就職先を紹介してほしいとのことだった。
なぜ自分にたのむのか謎だが。
そういうたのまれごとをよく受ける。
なんとか力にはなりたいが。
ひとはみんな幸せなりたい。


しゃべらない社長。
会社が大渋滞。


哲学科を出た知人が、
哲学科を出た人間は善悪で物事を考えるから苦しむんだ、と言っていた。
わたしも哲学科を出た人間だが、たしかにそうだ。
原発を見ればわかるように、世の中は善悪ではまったく動いていない。
九電の前を通ると原発反対のプラカードを掲げたおばあちゃんがいつもいて
にっこりしてくれる。
平和活動をしている人に平和な顔をしている人が少ないが、
このおばあちゃんは違う。
平和をもとめるさなかに、常に分裂、対立、争いを多く見てきた。
そういうものなんです!とあきらめるか。


ネコには関係ない。
春だからか、えさをたくさん食べる。
わたしも食欲が多いようだ。
露出狂が増える。
春の季語と誰かが。
寒いと露出できないのか。


味噌汁三百六十五日という古書を購入。
わたしは味噌汁を愛しています。
沸騰させてはいけません。


***
汁の実が、ほどよい柔らかさ、
それもそのものの持ち味がはっきり残っている柔らかさで、
味噌汁がなじんでいて、、   『味噌汁三百六十五日』辻嘉一


PTA(ポール・トーマス・アンダーソン)の2012年の映画「ザ・マスター」を見ました。
(以下少しネタバレあります)
一貫してPTAは救われない人間を説諭して救おうとすることに関心があるようです。
顔の迫力、ショットの充実、色調、ホアキン・フェニックスのなで肩、顔の歪み、
映画でここまでできるという発見がありました。
このレベルは日本映画では到底出来ないと歯痒い思いさえしました。


いつか大阪で路頭に迷った男が新興宗教かなにかの組織に入り、そこの儀式でなにかを飲み、
願い事を書く紙を渡されると、「自分にはそんな資格などない」と泣き叫び、
そこを離れ、タコ部屋の個室ビデオ店に火を放って多くの死傷者を出した事件を、
そしてこの逮捕されたときの男の顔をただひたすら思い出しながら、この映画を見ました。


わたしは宗教を否定しません。
しかし宗教を信仰している人を何人も見て思いますのが、
その救われ方の浅さです。


わたしはあるとき唐突に覚醒体験をしました。
鳥の声の意味がわかり、人の思考がリーディングでき、地球の全体の出来事に涙しました。
人に向き合うとき、それぞれの人生にテーマがあることが、フィルムに光が感光するように
じわっと滲み出して伝わるのです。
宗教家の語る業(カルマ)や転生といったことを自然に体認していました。
肉食をやめ、玄米菜食を主とし、酒やコーヒーを飲まなくなりました。
悩みやストレスが消滅し、朝の太陽の美しさに愕然とする毎日でした。
隣人をホームレスを愛し、憎しみや怒りの心が消滅しました。
ここから宗教を生み出せるとさえ思いました。
でも根底にあったのは謙虚さと使命感でした。
こんな体験をしてしまった者の使命があると思いました。
わたしはたくさんの覚醒体験談を読んでいました。偉人から一般人までの。
それゆえこれが一時的なものであることはわかっていたし、この状態が消えてしまうのが怖かったです。
この状態を維持しようと毎朝4時には起きて、外で真っ暗闇の中呼吸をし、
精神世界の本をむさぼるように読んでいました。
1ヶ月ほど経つと、この覚醒体験の「効能」は弱まっていきましたが、
徐徐の変化であったため日常にまぎれて、悲しさもありませんでした。
いまでは多少の肉も食べるし酒も飲みますが、菜食の方が心身は安定します。


私はこの「ザ・マスター」という映画をまったく違った次元でも見ていました。
ホアキンは最後、ザ・マスターと呼ばれる教祖の元を去ります。
その選択が最良のものであるのかは誰にもわかりません。

わたしは覚醒体験により見えた風景によって確かに変わりはしましたが、
おもしろいことに再び肉を口にすることの方が重要に思えました。
あばら骨の浮き出た釈迦が悟りの後、少女の持ってきた乳粥を口にしたのはなぜでしょう。
こんな釈迦に失望した修行僧は5人いたようです。
このとき釈迦は輝く金星を見たと言いますが、大分の明け方の東に強く輝くのは金星でしょうか。
少女の名前はスジャータ(善生)と言いますが、あの食品メーカーのスジャータはここからきたのでしょうか。


救いや覚醒、悟りといったものはあくまである〈状態〉を示したもので、
体験すればすれで終わりといったものではありません。
仏陀のことを永遠の覚者と呼ぶように、その状態が持続できるのは、
一部の人だけでしょう。ここを勘違いすると宗教はカルトになります。
気をつけないと教祖はいつの間にか腐臭の漂う便所のようになってるでしょう。


「自分には救済される資格などない」と泣き叫んだ男は死刑にされます。
その魂はどこに行くのでしょう。


映画の終わり、別れ際、教祖は「ON A SLOW BOAT TO CHINA」を歌います。



あなたを小さな船に乗せて

中国までゆっくり行きたい

あなたを独り占めしたいわ




ラジオでしゃべっている言葉がふと、
「輪廻とスコアボード」と聞こえた。
聞き違いだが、想像力をふくらませた。


わたしが何度も何度も聴いている
スピッツの「田舎の生活」という名曲には、
不意に「輪廻」という言葉が出てくる。



根野菜の泥を洗う君と
縁側に遊ぶ僕らの子と
うつらうつら柔らかな日差し
終わることのない輪廻の上




崩れるところに甘みが出る。
屋根が瓦が崩壊しつつある家屋を見て、そう思った。
傾きがそのまま創造となる。
あるいは未完でもいい。


「仕事をする時は、共に道を歩んでくれる愉快な仲間を集めよう」デヴィッド・リンチ

最近はどこかに行きたいという旅の欲求が希薄になった。
今、ここを深くダイブしたいという、そこに汲めども尽きせぬものを見た。




ジョウビタキ


庭にジョウビタキがあらわれた。
漢字では「常鶲」と書く。
腹部がレンガ色をし、翼に白斑がある。
昨年数ヶ月かけて、平出隆『鳥を探しに』(昨年読んだ本のベスト1)を読んで以来、
すっかり鳥に魅了されると、わたしの庭に幾種類もの鳥たちが
訪れることにきづいた。近くに大きな河川があるからだろう。
鳴き声もそれぞれで、愛おしい。

朝、さわやかに太陽が立ち上って、光もやさしかった。
韓氏意拳の站椿をひさしぶりにする。
ただ立っているだけだが、すがすがしい。
天と地のあいだにわたしがミディアムとなってひとつの柱になる。
朝の太陽を見ていたときに浮かんだ言葉は金剛と胎蔵だった。
ストロング金剛という固有名詞もついでに思い出してしまった。
昨年から曼荼羅がずっと気になっている。
杉浦康平の『マンダラ発光』を思わず買う。

鶴崎大神宮には宮司がいないようだ。
手水も管理が行き届いていないことがある。
わたしでも宮司になれるのだろうか。

正月はラジオ録音したピーター・バラカンの4時間半にわたるジャズ特集を
聴くともなく聴いている。わたしが時代遅れなのか、どれもジャズには聴こえないのがすごい。

ポケットにしまってあったモレスキンのノートごと洗濯してしまいばらばらに粉砕した。
何が書かれてあったのかもう思い出せない。
新しいモレスキン・ノートを買う。
そこには書かれてなかった言葉を継ぎ足す。


「人の体は水で満たされているのと同じだけ光で満たされている。」『未明の闘争』保坂和志

「更に諸尊ことごとく月輪(がちりん)と称する円光の中にいることに注目すべきであろう。これを以て思いを致せば、金剛界マンダラは夜の光景であるかもしれない。もしそうだとすると、胎蔵界マンダラは昼の光景であるかもしれない。すなわちまた、金胎両部マンダラは昼夜を分かつ全天の光景であるかもしれない。」『マンダラ紀行』森敦

「短かい時のあいだに我に返る。何か幸福というものらしきものが、あそこにある。今、はじめて分ったようにあそこにある。ほんとうはずっと前からああいう光線を見ていたものだった。しかしこのように新しい自然のように、幼児が外界を見るように初々しく発見した。発見は、何もトルストイやトルストイのえがく人物だけの専売特許ではない。ところが発見はかえって彼の事情を息苦しくさせる。彼は幼児のように発見したけれども、強壮なる二十七歳の男である。」『私の作家遍歴』小島信夫


A Happy New Year !



今の世の中のしくみは、飢えへの恐怖をあおって強制労働をさせるシステムである。フロム


わたしたちの生きる歓びを阻害しているのはなんだろうか?



やりたくもないことをやっていることは人を苦しめるだろう。
労働。
食うためにといって、人生の大半の時間をそれに費やし、
老いて、死んでいく。
そのほとんどが自分の本質からかけ離れている。
つまり生きる歓びからはほど遠い。
むろん、それを修行と解釈して磨き砂と受け入れることもできるだろう。
でもこの生き方、大昔からあったわけではない。
主が働き、給料を貰い、それで家族を養う。上司や社長の支配下にはいる。
言いたいことも我慢する。酒場で愚痴る。
社長は従業員とその家族を養うために大きなプレッシャーを背負い続ける。
倒産する。自殺するものもいるだろう。


最近はベーシック・インカムに関する著作を読んでいる。
みなさんはベーシック・インカムをご存じだろうか。
国がすべての国民に生活に必要な最低限のお金(8万〜10万)を給付するという構想である。
これが実現したらどう社会が変わっていくだろうか。
食うために自分の好きなことを諦める必要はなくなるし、
食うためにブラック企業に勤める必要もなくなる。
貧困による苦しさがなくなる。
なにより誰かの奴隷である必要がなくなる。
会社勤めは優しく扱ってくれる奴隷になること。
子どもが増えれば給付額も増える。
もちろん消費も増える。
これは夢物語ではない。
今スイスでは、このベーシック・インカム導入にあたっての国民投票が行われている。


ぱっと思いつく問題点は怠け者が増えるのでは?というのと財源はどうするの?
というところだろう。
月10万はぎりぎりの生活だ。もちろん遊ぶお金はない。
人は怠けるのにも多大なエネルギーを必要とする。
ニートは苦しい。
人は生活の心配がなくなった状態の方が、はるかに創造的に生きるものだ。
定年して年金暮らしをしていてもなおかつ引きこもらず精力的に動いている方々を
目の当たりにするとつくづくそう思う。

財源については、年金制度や生活保護、雇用保険を一律ベーシック・インカムに置き換えれば、
1円も増税することなく、日本国民全員に一律月4万6千円の給付が可能になると資産されている。


まあもちろん支配層、既得権益にしがみついている者たちは
あらゆる手段をつかって、この導入には反対するだろう。

戦争と核(原発)と貧困のない自由な社会をつくる会

スイス ベーシック・インカム導入をめぐる国民投票

ベーシック・インカム