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2010.05.12 句碑から
ラーメン山頭火ではない

仕事で宇佐に行った。
小さな公園でトイレ休憩をしたら碑がぽつねんと建ってあったのでなにかと思ったら、山頭火の句だった。



秋の空高く巡査に叱られた



どこで改行すべきかもしくはスペースを空けるべきかわからないのでストレートでそのまま。
脇にあった説明文を読むと、挙動不審の山頭火は宿に入ったら無賃者だと誤解されて警察に通報されたというような趣旨のことが描かれてあった。自由律とは今考えられている以上にポップで過激な形式だったのだろう。放浪にはやがて終わりがあることを彼は考えていたのだろうか。

漂白や放浪といった職業が成立する社会であってほしい。

それにしても山頭火の「鴉啼いてわたしも一人」とか「まつすぐな道でさみしい」とか、すごくツイッターぽい。

自由律俳句ついでに尾崎放哉氏のものも紹介。



墓の裏に廻る



いれものがない両手でうける



すばらしい乳房だ蚊が居る



鼠にジヤガ芋をたべられて寝た



春の山の後ろから煙が出だした



このどうでもよさが凄い。ほとんどわざわざ句にする必要がない感じの題材が素晴らしい。
山頭火はあくまで「私」の孤独だったり「私」の実感がすべてで、山頭火の問題圏はあくまで「私」にあるのに対して放哉の感触は随分違う。「私」を通過して遠いところまで突き抜けている。山頭火の「鴉啼いてわたしも一人」と放哉の「咳をしても一人」や「墓地からもどつて来ても一人」は似ているようで世界認識が全然ちがう。


山頭火も放哉も職も家族も失う中で俳句だけが残って、ひたすら詠んだのだった。
fukashiさんにとって俳句のようなものはあるだろうか。


しかし俳句という形式がもつ現実を切り取る力は凄いなと思った。
あっという間にリアルを異化してしまう。
今こそ俳句の時代かもしれないと本気で考える。
ブログやツイッターは文学や詩よりも俳句の方が近いと思う。





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